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hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop

透過光で学ぶ…を考えてみる

 Facebookでシェアした件。
 元々は「液晶ディスプレイを教育に使う」という流れが加速しているけれど、紙の教科書をディスプレイで見せるだけ(工夫は多少されているけれど)でいいのかな? 透過光という脳内に刻み込みにくいメディアを使うなら、それ向けに教科書の作り方を工夫すべきじゃないかな?」という展開にしたかったのだけれど、透過光と反射光の問題で話が進んでしまった。

 Facebookでは、「透過光も反射光も変わりない」という人まで現れて、そうなると脳の認知システム、視覚情報の処理といった話までさかのぼらなければならず、そこまで解説する余裕はないので会話を打ち切った次第。
 優れたWebデザイナー&プログラマーで見識の深い喜洋さんとか、透明ディスプレイやAIの話題にまで発展させてくれて、楽しく盛り上がりそうだったのに申し訳なく思う。この方面の話ももっと続けてみたかったのだけれど、楽しい酒席は長く続かないものかも(笑)。

 教育の話と言うより、ここでは「伝達手段」と読み替えた方がいいだろう。要は「伝達装置としてのメディア」の問題である。
 基本的に太陽からの反射光によって世界を把握するようプログラムされている地球上の生物にとっては(深海魚やミミズさんなどは別だけれど、これについては後述)、透過光と言えば(Facebookに書いたように)太陽光線の透けてくる「空」なのだ。それは基本的に「仰ぎ見る存在」であり、あらゆる宗教が「そこに神がおわす」と捉えた方向である。
 二次元方向にしか移動できない人間にとって、空というZ軸は手の届かない場所でもあった。そこから光がやってきて、我々のいる場所を照らしているのだ。特別だと思わない方がおかしい。

 神は「上(かみ)」であり、雨は「天(あま)」からやってきた報せであり、雷は「神鳴り」である。また、色の赤(あか)と「明るい」の語源は同じで、原始の時代には太陽が空に現れて光を落とすと、それを「あかくなった」と言ったわけだ。つまり、色のREDではなく「光が射している状態」を「あかい」と表現したのだ。天照大神(アマテラスオオミカミ)は世界に光を降り注がせるから「あまをてらす神」なのである。

 おやおや、話が違う方向に行きそうだから軌道修正^^)ゞ。
 上記は日本に限っての話だけれど、世界中どこでも、空間の上方は未知であり、気高く尊い場所だという認識はある。それは、我々がものを認識するための光を与えてくれる存在だからだ。
 人工的な光が生まれたのは、火の発見からだろう。しかし、火は闇(やみ=止み=病み)をほの暗く照だけであって、世界を見渡せるほどの力はない。世界(この場合は個人が見渡せる範囲)を照らす光の登場は、文明が発達して以降の話であり、そこには神話的叙情性などかけらもない。
 また、生物学的、解剖学的に「上を向く」という動作は脳への血流を低下させ(椎骨動脈の弱い圧迫による)、思考力を低下させる。広告が上に取り付けてあるのも、単に見えやすいという理由だけではなく、批判的な読み取り方を防ぐためである。イタリアの大壁画を夏に見学すると、よく失神者が出ると言われる。神秘的な力ではなく、気温上昇で血液が濃くなっている上に、長時間上を向いたままだからだ。それがまた、人をして神秘的な気分にせしむるのだろう。

 そんなわけで、上から照らされた光=太陽からの透過光環境下での認識は、自ずと「受け身」になってしまうのだ。
 対して反射光環境は、眼前の世界を把握するために必須である。元々生物は水中に棲んでいた。そのときには、水の流れを肌で感じ取るだけで十分だった。必要な感覚は触覚(皮膚感覚)だけ(この皮膚感がフェティシズムにつながるのだけれど、それはまた別の機会または授業で)。しかし、餌を獲る、外敵から身を守るという必要に迫られ、髭や手という触覚が発達し、さらにそれが進化して視覚が生まれた。これによって、触覚器官の届かない遠い場所の敵でも察知できるようになった。
(下世話な話で恐縮だけど、人間のオスは映像で性的興奮を得るが、メスは触覚が第一だと言われる。これには、人間が集団=社会の原型を作り、オスが集団で獲物を狩るようになったことが理由としてあるようだ。本筋とは無関係なので、以下省略)

 硝子体というレンズが集めた光は網膜に投影され、視神経を通じて視床下部へと送信される。網膜は光という刺激を映像情報に変換する器官であり、それは皮膚の変化したものだ。嗅覚細胞や味を識別するための味蕾も同じで、皮膚が変異したものである。
 水中の闇で暮らしていた遠い遠い祖先は、視覚を獲得したことで「今いる場所より上の世界がある」ことを知り、陸に上がったことでさらに「その上の世界」があることを知った。しかしそこには、鳥でさえ自在には行けない。

 先ほど「闇=止み」と書いたが、原始の時代に世界が終わった(止んだ)状況が、太陽光の届かない「闇」であり、陸を伝ってたどり着くことのできない異世界が、自分たちの行動範囲から外である「陸の止んだところ」すなわち「山(やま)うところ」なのだ(ついでに言うと、生物としての活動が止んだ状態を「やまい(病)」と呼んだ)。
 あ、また話が日本語に戻っちゃった^^)ゞ 要するに、それくらい光と生活とは、原初的に切り離せない概念だったということ。
 だから、これだけ文明が発達して人工物だらけになった現代でも、我々は「それが太陽という不滅の光が直接射してきて見せられたモノなのか、はたまた間接的に照らされて見えているモノなのか」は、自ずと切り分けて感じている《はず》なのだ。

 そこで教科書の話(今からかい?!)。
 有馬哲夫氏の著書「世界のしくみが見える『メディア論』―有馬哲夫教授の早大講義録」( 宝島社)にあるように(冒頭のリンクを読んでもすぐにわかるはず)、透過光で受け取った情報は脳を受容モードに切り替えるため、反射光環境で読む紙の本とは異なる受け取り方を無意識的にしてしまう。
 教育とは、先生の言ったことを闇雲に信じることではない。それだったら、戦前の修身(今の道徳)だ。「立派な日本人はお国のために死にましょう」なんてやってた時代ではないのである。
 書物に書かれたことを我が内に取り入れるため、書かれたことを客観的に受け止め、自ら調べ、試すことで知識・教養という血肉になっていく。教育とは、(教科書などの)与えられた情報から、そのような姿勢、態度を育てる行為である。だから、教科書だけではなく、新聞であれネットのまとめサイトであれブログであれ、「ちょっと待てよ、ほんとかな?」「じゃあ試してみよう」「他も当たってみよう」という姿勢が大切なのだ。

 学ぶとは、早押しクイズを競うためではなく、よりよく生き、よりよく社会に貢献するための行為だと思う(それが自身の存在感、自己肯定感につながるというのが定説)。
 だから、学習にとって、対象への批判的、懐疑的な態度は不可欠である。
 ここで、ネット上の「なんでもつっこむ」態度と混同してはいけない。ちょっと端っこをかじっただけで、僅かな知識を振りかざして他者の意見を否定するのは、批判的な知の態度ではない。これは言わずと知れたことで、説教臭くなるので割愛する。
 ただ、ネットで気になるのは、情報が溢れてしまった現在では、自分の関心のあることだけ、自分と同意見の情報だけを選別して受け取ることが多くなった、という危惧がある(いわゆる「情報の偏食」で頭脳と感情が生活習慣病になった、みたいな)。

 右寄りの人は右側の、左寄りの人は左側の声だけを受け取るから心地よいけれど、本当の意味での論争がない。さらに、批判されたくないという自己防衛意識が強まり、反対意見を攻撃してしまう人が増えている。攻撃というより見下す人が目立つなぁ。
 書き込んでいる本人は、ひょっとしたら敬意を払っているつもりなのかもしれない。けれど「へーそうですか? 私はそうは思わないんですけどねぇ」という文言の中に、相手への蔑視が見え隠れする(文面を読めばわかってしまう)。それはむしろ、相手への軽蔑というより「他者を落とすことで相対的に『自分は凄いんだぞ』と主張したい」未熟な認証欲求の発露だ(これを「自尊心のシーソーゲーム」と命名する)。
 社会的認証が未経験の子供ならままあることだが、近頃はいい年こいた大人にも蔓延しているようだ。これはまぁ、社会学的には別のテーマだけど。ただ、こういったことも含めてリテラシーの重要性がよくわかる。

 批判というのは大きな存在、権威に対して行うべきものだ。だから、教科書や先生の話に対して「それはおかしいと思いますよ」と疑義を示すのはいい。ただし、そう言ったからには自身がその問題に対峙し、自身による見解を述べなければならない。それが、発展的な論争である。そして、そのような態度を身に着けるのが教育であり、そのためには透過光環境のテキストをただ受け入れるだけでいいのだろうか、と思った次第。
 自分より弱い立場に対して、あるいは立場上腰を低くせざるを得ない人に対して、あからさまな批判をするのは問題外。ネットの匿名での批判も同じ。匿名掲示板は、どれだけ立派なことが書かれていても「クズ」である。せっかく希少な専門書を持っているなら、ブックオフじゃなくて大阪・梅田の専門古書店で売りなさい、ってこと(ちょっと違うか?)。

 そして批判には、必ず「人間に対する、あるいは相手の経歴や成果に対する尊敬」が含まれていなければならない。そんな態度も、批判的、分析的な読み取りによって育まれる。だって、何かを闇雲に信じる人は、何かを闇雲に否定するでしょ? 両者は裏表だから。
 正しく否定できれば、正しく肯定もできるはず。「学ぶ」とはそういう姿勢を育て、伸ばすことだと思う。
 そういうことで、透過光向けの教科書や教育方法については、まだまだ考えていかねばなりません。
 気になっている人は、是非ご意見を! Fcebookで取り上げてくれてもいいですよ。
 ちなみに、僕が偉い先生を悪く言ったとしたら、それは尊敬を込めてのことです。ほんとです、信じてください、ほんとだってばあぁぁ…(焦汗)。

 なお、今回もほぼ思いつきの雑文なので、誤解、間違い、勘違いなどがあればご指摘ください。

【追記】先ほど読み直したら、これとその前の文とで、20箇所ほどの誤変換があっったので、慌てて修正した。透過光/反射光という前に、そもそも「書き手がそそっかしいかどうか」という個人的な問題が大きいようだ^^)ゞ

by horonekop | 2017-02-01 19:17 | 日記・その他