「○○業」でなければいけないんですか?
2018年 01月 21日
初対面の人に「お仕事は何を?」と尋ねられると、一応「大学教員です」などと答えることにしている。
実際にそうなんだけど、実のところこういう質問をされると、毎度、何と答えようか困ってしまう。で、まあ当たり障りのないというか、一番わかりやすそうな肩書きを使うことにしているわけだ。
僕の名刺には大学の他に、文筆業とかデザイナーとか小さな文字であれこれと書き込んでいる。名刺を渡した人はそれを眺め「で、本業は?」などとやはり尋ねてこられることが多いので、上述のように端的に答えるようにしているわけだ。
大抵の場合、大学教員のようにわかりやすい職業を告げれば納得してもらえる。
物書きだといえば「どんな本を?」などと訊かれ、コンピュータ関係と答えれば「なにやら難しそうな本を書いているのかな」という顔をされるし、「雑誌に映画のコラムなんかも書いてます」と言うと、怪しいオタクのように思われたり(そんな気がしているだけかもしれないけど)。
名刺には写真関係の文言はひと言も書いていない。大阪芸大写真学科とは書いているから、「写真の先生ですか」と言ってくる方はいる。それはまあその通りなので「はい」と答えると、主に男性からはデジカメの話を振ってこられたりする。「SONYのXXXっていうxxx万画素のカメラを買ったんですけど、ズームの倍率が…」などと質問されたりすることもあるけど、カメラマニア向け雑誌の記事みたいなことは専門外というか関心の外なので、よくわからないと言うと「なんだ」みたいな顔をされることもしばしば。
どうも写真の先生ってのは、カメラ雑誌のレビュー記事みたいなことに詳しいと思われているようだ(インクジェットプリンタのインクとか用紙と色再現については詳しいけれど、デジカメマニアはそういうところに関心が薄いみたい)。
昔、Webの記事で(記事本文の参考としてついでに)キヤノン製品の発売順を取り違えたら、デジカメマニアのネット掲示板で、ある人(当然匿名)から「写真の先生が絶対に間違えてはいけないことを間違えやがった」と非難されたことがある。アホか? 俺はヨドバシカメラの店員じゃないっての(笑)
それを知ってのことだろう、教員仲間から「あんたは写真家を名乗らない方がいいよ」とご丁寧にも得意げにアドバイスされた。Photoshopで「不要な背景は焼き込みツールで消せ」なんてとんでもないことを教えてる奴に、言われたかないよ(お前が教師辞めろ(笑))。
とまあ、肩書きについてあれこれ言ってみたのは、西野亮廣氏の言っていることが至極もっともだと思ったから。
少し前の彼のブログ(「革命のファンファーレ」が出た頃だと思う)で、自分の肩書きを固定してはいけないといった旨を書かれていた。
僕の考えと全く同じ。西野氏自身、自分の肩書きがよくわからないのだという。お笑い芸であり、絵本作家でもあって、他にもCMプロデューサとか、何かいろいろやっている。だからって、彼が何者かわからないこともなければ、何を考え何を主張しているか見当が付かないわけではもちろんない。
僕も同じで、名刺に表記する肩書きにはいろいろな職業があるけれど、その中の一つをインデックスにして「こういう人」だと断じられても、あるいは勝手に推測されても嬉しくないのだ。
こういう人なんだ、こんなことを主張している人なんだ、ということは、ブログなり出版物なりを読んで、あるいはもっと詳しく知りたいなら大学で講義でも聴いて、その上で判断いただきたい。
だいたい、85mmx57mm程度の紙切れに6ポイントくらいの文字で、僕の何が判るっていうのだ?(生まれたところや皮膚や目の色で、一体この僕の…♪以下、著作権抵触を危惧して自主規制(笑))。
「そういう小難しいことじゃなくて、初対面の人と話すきっかけとして、職業を知るのが最適なんだよ」と、社会人は言うだろう。だったら、職業を聞いた直後に、デジカメやレンズのレビューみたいな話を振ってこないでください。
いや、聞いてもいいんだけど、「写真ってカメラ雑誌のレビュー記事レベルしか関心ありませんよ」と、自分の浅さを白状しているだけで、話を聞き終えたら「なんだ、写真の先生ってデジカメのことを知らないんだ」と勝手に納得し、結局はこちらのことをわかろうなんてしていないのだとわかってしまう。
その結果わかるのは「この人は自分の理解できる範囲、読み書きできる文字の範囲でしか世界を見ようとしないんだろうな」と、これまたこちらが勝手に判断してしまうだけだろう。
そんなことにために、「私は○○業でございます」なんて表明しなければいけないのだろうか? 「私は○○業」と宣言することは、「私は他のことは専門ではないので、お話しできません」と拒否することであり、同時に「○○は専門だから任せなさい」という傲慢な姿勢でもある。
興味や関心があれば、僕はどんなことでも、専門でなくても首をつっこむし、たとえ専門であってもわからないことはいくつもある。それじゃあいけないんですかね?
で、話のきっかけとして職業をいろいろ書くのは確かで、名刺を見て「いろいろやってるんですね。器用な人ですね」と、まあお世辞半分でおっしゃる人もいらっしゃる。
こちらとしては「器用貧乏でして」と頭を掻き、「何とか暇なしでね…」と冗談でごまかしたりすることになる(器用は事実ではないが貧乏は本当)。
いろいろやってるのは、いろいろなことに興味があるだけ。面白いと思うからやってみて、そのまま面白さが継続できれば仕事になることもあるという、ただそれだけのことなのだ。他に意味はない。
そこからビジネスにつなげる西野氏のような才覚も、もちろん持ち合わせていない。
でも、こういうスタンスって理解されないんだよね、なかなか。だから、フォトグラファーを含めて「プロ」と名乗るつもりは毛頭ない。アマチュアでかまわない。暇人の道楽と思われてもいい。
但し、写真にしてもコンピュータにしても、そこら辺の「プロ」と名乗っている人より理解しているつもりではある。だって、オブジェクト指向をわかっていない人がJavaやC#を教えてたり、PhotoshopやIllustratorの使い方を間違っている人がデジタル画像処理を教えたりしてるんだよ(僕の関わっていない、某教育機関で実際に見聞した話。参りますよ、もう)。
昔から、学生にはよく言うのだ。「この道一筋ン十年とかって人、かっこいいけど俺にはできない」って。僕は、ただ飽きっぽいだけだと思う。
若い頃にギターを始めたのは、あの世代の男子なら誰しも思う「かっこよく見せたい、モテたい」という下衆な心理からだったが、そこから城田じゅんじのバンジョーを聞いてすげぇと思い(特にものまねバンジョーは最高!)、必死こいて練習した。
曲を作ったらもっとかっこいいだろうと思って、音楽理論を勉強し、ピアノの譜面を読み書きできるところまではいけた(弾けないけど)。
写真も、ステージ上の音楽仲間を撮影したら、特に女子のグループからモテるかなと考えて、そこからハマってライブの写真を撮るようになり、モノクロ写真の現像とプリントに手を染めた(きっかけは常に低俗で、芸術性などかけらもない)。
ステージの照明はコントラストが高く、なかなか思い通りに捉えられない。それで露出や照明を勉強し、アナログのプリント技術もマスターした。凝り性というわけではないが、納得するまで突き詰めないと止まらない性分なのだ。
コンピュータも、勤めていたとき職場に導入されたマシンが自分の管理担当だったので、ゲームを作って遊んだりしていた(当時はコンピュータブースがあって、外からは何をしているか見えなかったから(笑))。
で、暇に任せて仕事で使うプログラムを作った。面倒な作業を減らして、楽をしたかったから。仕事に対しては、立派な怠け者なのだ(笑)。
お客さんの情報を別ファイルに保存しておけば、番号で呼び出して再利用できると気付き、それが独自のデータベースにつながった。
本来の仕事をさっさと仕上げ、コンピュータブースに閉じこもって遊んだ末に、C言語からマシン語まで1年ほどでマスターし、グラフィックを使ったフローチャート・エディタなんかも作った。
そんな中で、当時は存在しなかったバックアップソフト(追加や書き換えられたデータだけをコピーするプログラム)ができちゃったので、たまたま本屋で立ち読みしたパソコン雑誌に投稿したら、記事を書かないかとお誘いがきて、そこから技術系の執筆をするようになった。
そうこうしているうちに、ある出版社のパーティーがきっかけで、コンピュータのソフトウェア史を文化史と重ねて綴るという連載をやらせてもらい、やっとここで、学んできた社会学と職業が融合。
そこでは、英語の専門書や技術エッセイの監修(翻訳は専門の会社だったけど、コンピュータによる機械翻訳なので、結局自分で人力翻訳した)もやらせてもらった。
さらに、ある雑誌の編集長と雑談していて映画の話になり、僕が映画好きだとわかると、後に映画のコラムを書かせてくれた。原稿料はチープだったけど、一番楽しい仕事だった。
とまあ、僕は実に好き勝手なことをやらせていただいたのだろうと、つくづく思う。
好きだからこれだけあれこれやれたのであって、必要だから好きでもないことをお勉強して…なんてやってたら、きっと何にもできなかったと思う。
器用なのではなく、面白いと思っただけ。面白いと思うことがたくさんあり、幸いにもコンピュータの担当で暇が作れただけ。
話のわかる、あるいは僕のようなトンデモ野郎に連載を任せる度胸をお持ちの編集長に出会えただけ。編集者など、作ることを助けてくれる人に恵まれただけ。
僕が授業で、ギャラリーの運営者など創作者をサポートする人たちの存在にこだわるのは、そういう経緯を身を以て知っているからだと思う。
君がどんなに優れたアーティストでも、それを世に出す仲間がいなければただの「上手な人」でしかないのだよ。
今もまぁ、僕のような野郎に学生を任せるという、度胸のある偉い人が存在しただけかもしれない。
面白いと、人間は難しくっても頑張っちゃうものだ。頑張れと励ましても、本人が楽しんでいなければ簡単なことにさえ挫折する。根性論など当てにならない。根性や努力に頼れるのは、本人がそれを面白いと思うからだ。楽しくも面白くもないことに根性出して努力するなど、変態である(と、僕は思っている)。
自分の知っている範囲で、自分以外のモノやコトをさらに知ろうとしても、それは無理ってものだ。自分には理解できていないということを、知っておくことが必要。理解したつもりで事に当たると、誤解だけではなく、自身の進み方を間違ってしまうかもしれない。
ネット社会では特に、何かを否定したり批判したりが、責任を負わずしてできる。それが常識=大多数の意見だと、根拠もなく思ってしまえる。その怖さを知っているかどうかが分かれ道。
謙虚さを持ちたい。事実とか、先人の成果とか、あるいは自然の力とかに対して。
そして、自分の生活、短い人生で得たことがすべてだなどと思わないでいたい。新しいことに興味を持つとは、「自分は何でもマスターできる」という傲慢さではなく、「知らないことだらけ」だと知る謙虚さの表れであるべきだ(と、自分に言い聞かせてみる)。
西野氏はこうも言っている。
「常識のアップデートを止めてはならない」
…「謙虚」とはそういうことだ。
by horonekop
| 2018-01-21 19:08
| 日記・その他