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hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop
■前口上~基準は「日中晴天屋外」
 環境光によって、服や持ち物の色が異なって見える…条件等色(メタメリズム)について説明してきた。衣類や持ち物だけではなく、空や木や草を含めたすべての物体の色が、それを照らす光~環境光に左右される。
 我々を取り巻いている世界の見え方は、それらを照らす光の質によって必ずしも一意ではない、実に不確かな存在なのだ(まさに色即是空、空即是色)。
 色の基準は既に説明したように《太陽光》であり、静止画でも動画でも太陽光に照射される状態が「色の基準」としてデザインや印刷の現場で基本となる。このことは写真や動画の世界だけではなく、日常生活にも影響を与えている。
 衣類や持ち物などの「色の見え方」が、それを照らす光…環境光によって変わってくる。基準である太陽光は「日中晴天屋外」だということも、既に説明したとおり。
 厄介なのは環境光の違いによって、同じ色が異なって見えたり、違う色が同じに見えたりする場合があることだ。生活の中では、《日中晴天屋外以外の環境光》で照射されることが多い…と言うか、基準である「日中晴天屋外以外の環境光」で照らされることのほうが多いだろう。
 条件等色による色の見え方の違いは、撮影スタジオなどの閉鎖空間であればなくすことができる(=環境光を一定に保つことができる)が、買い物や仕事などで様々な環境光にさらされる日常生活では、常に環境光を同じに保つことは不可能だ。
 日常の生活で条件等色※による「色の見え方の違い」をできる限り少なくすることを考えてみたい。

 ※条件等色~(光に照らされるという)条件によって、違う色が「等しい状態に」見える…ということであって、「同色」…同じ色に変化するということではない。「等」と「同」…音が似ているので混同しないよう注意を!

■服や持ち物などのコーディネート
 環境光によってモノの色が変わって見えることが問題になる状況では、単に服の色とか小物の色といった「それ単体の色」にとどまらず、例えば上着ならそれに釣り合うスラックスやスカート、トップスに対するボトムズも色や柄の釣り合うものを選ぶことになる。
 上着を選んだら、それに合うシャツなどを選ぶことになるし、バッグなどの小物もデザインを合わさなければならない。
 外に出かけるなら靴の色も気にかける必要があるし、場合によっては眼鏡のフレームのデザインやゃ髪型、髪の色まで検討の対象になるかもしれない。
 こういった服の組み合わせの他に靴やバッグなどの色、柄も考えることになる(そういう方面に無頓着ならそれで構わないが)。このような衣類に対する持ち物などの色、デザインの組み合わせを「コーディネート(coordinate)」と呼ぶことはご存知だろう。

■コーディネートの意味
 コーディネートは単に衣服の取り合わせだけではなく、建物の外観、内装さらには公園や道路などのデザイン、配置など機能設計などにも使われる言葉であるし、地図上の位置~座標を表す意味もある。座標の場合は緯度と経度、異なる複数の指標(パラメータ)を用いて1つの位置を指す言葉だ。
 一般にファッションの分野で用いられることが多いが、「座標」や「時と場所」、「目的と服装」のように「要素の異なるコトやモノを取り合わせる」ことを総じて表す。
 条件等色の話題なので、今回は服と持ち物の色、デザインの話題に絞ることになるが、コーディネートという言葉からは単にファッションだけでなく、様々な取り合わせを意味する言葉だいうことを意識していただきたい。

 ※コーディネートという言葉には「どのようなデータをどういった計算に用いるか?」といった、プログラム設計での取り合わせの意味も含んでいる。

■条件等色を避けるコーディネート
 デザインとして同じ色同士を取り合わせると安定感が生まれるが、全く同じ色、同じ素材で合わせる場合以外は、環境光によって異なる色に見えしてまう場合がある。これを避けるためには「同じ素材・同じ色」で揃える必要があるが、スーツの上下のように同じデザインで揃えることが前提ならともかく、そうでない場合は色の統一には無理が生じる。
 素材やデザインが似ているようで細部が異なる~という状態では、かえってちぐはぐな印象になってしまう。
 これを避けるには、同系色だけれど「あえて異なる色」を取り合わせたほうがよい。例えばベージュ、赤系の茶色、黒っぽい茶色…など、濃淡を付けたグラデーションで服、靴、持ち物を揃えれば、環境光が変わっても全体のデザインを統一できる。ただ同系色のグラデーションはセンスを問われるので、色の選び方に神経を使いたい。
 もちろん本来の目的である仕事や買い物が主なので、ファッションだけに集中しすぎないよう注意したい。
 仕事や買い物などで屋内の蛍光灯や屋外の太陽光など環境光が切り替わるような状態では、条件等色を意識したコーディネートを考慮しておきたい。

■光に騙される??
 我々は物体を照射した光の反射を受け取ってモノを見ている。「見る」という行為には、モノを照らす「光」が必要だ。ということは、モノに当たった光の反射がなければ存在を認識できない…ということになる。
 光は周波数によって色が変わる。物体からの反射光は、その物体の質や天候などの条件によって周波数が一定ではない。同じものを見ても、常に同じ色が反射されるわけではない
 これが条件等色の本質なのだ。コニカミノルタのWebサイトに、わかりやすい図が掲載されているので紹介しておこう。

▶条件等色の説明(コニカミノルタのサイト)
 https://www.konicaminolta.jp/instruments/knowledge/color/section3/05.html

 他にも詳しく解説しているサイトがあるので、「条件等色」「メタメリズム」などのキーワードで検索すればさらに突っ込んだ科学的な解説が得られるはずだ。

 ※現在はコニカミノルタではカメラ事業から撤退しているが、2000年代初頭には有名なカメラメーカーだった。フィルムカメラの時代では、コンパクトカメラのオートフォーカスを実現したコニカと、一眼レフのオートフォーカスを実現したミノルタが合併した老舗メーカーである。

■コニカミノルタでの調査・研究
 コニカミノルタではエンドユーザーのサポートに力を入れていて、イメージング文化研究所という調査研究部門で写真文化の研究を行っていた。その研究所からお誘いを受けて、写真文化に関わる共同研究を行ったことがある。
 所長からフィルムカメラ時代の貴重なエピソードなどをお聞きしたので、別の機会に紹介しようと思っている。他にも研究員の方や他の部署の方々から色々役立つお話をお聞きした。研究を受け継ぐ形で僕の授業でも写真文化に関する調査研究を7年間続けてきたのだが、(写真学科の)少数の偉い先生がお気に召さなかったようで、写真文化に関わる研究と授業は打ち切りになってしまった。あと3年続けていられれば、1990年代終盤から2000年代初頭にかけての、フィルムからデジタルに移行する時期の の写真文化について役立つ研究が成果としてまとめられたのに、偉い先生方は、学生たちに《芸術性》を求めることに神領区していたようで、エンドユーザーの文化的な変化には興味がなかったんだろうなぁ(ひねくれ者の僕としては、末端のユーザーの動向こそ、アートの本質に迫る…と、思っているんだけれど)。

<コラム>
条件等色を取り上げたきっかけ
 数年前のことである。大学で2年生の実習を担当していたとき、1年生では学生の写真作品を教室に展示するという予定を聞いた。インクジェット用紙の経験も浅い1年生に、作品を展示させるのは難しいのじゃないか?と思っていたが、作品を作る楽しさを経験させる狙いと理解し、、進展を見ることにした。
 インクジェットプリンタの扱いも、印刷サイズと解像度の関係も理解できていないうちに、教員の用意した用紙でA4判サイズの写真を印刷させる…なかなか大胆な(無謀な)授業である。「怖いな」と思ったが、担当外なので「彼らが2年生になったら、プリンタの扱いなどをじっくり復習させよう」と、そう考えるよりなかった。
 パソコンというのは便利なもので、画像の解像度について何も知らなくても、なんとかカラー画像を印刷できてしまうから不思議だ。ただ、結果として指示通りの「作新」が印刷できただけで、仕組みや理屈はわからいままだったろう。
 展示を見て驚いた。解像度とかプリンタの扱いとか、そういったことはさておいて、学生の作品を展示している照明環境に驚愕したのだ。
 教室全体が蛍光灯で照らされている…ならよいのだが、角の暗い箇所になんと500ワットのタングステン電球が取り付けてあった。中央部分は昼光色の蛍光灯、隅っこはいわゆる裸電球のオレンジ色の光で照らされている!
 腰が砕けそうになった。蛍光灯で照らされているのは、設備の都合上仕方ないとして、暗くなった箇所をタングステン光で照らすとは…光がごちゃごちゃ、はちゃめちゃでカオスな照明環境である。
 撮影時にクリップオンタイプのストロボを知識も詳しく説明していないことに実習の不安を感じていたのだが、作品の展示にも驚きの問題を抱えていた。学生より先に教員を教育しなければ…条件等色を取り上げるきっかけのひとつである。


■プリントの条件等色
 光の質と素材によって元の色と異なる色が目に届く…という条件等色、店舗の肉や衣類などを例に説明してきたが、それら日常目にするものの他、プリンタで出力した結果にも影響が及ぶ。
 インクジェットプリンタで出力されたインクは、プリント用紙に吹き付けられる。それを見るときには環境光で照らされて、その反射光が目に届く。食品や服を見るのと同じ過程で色を見ているのだ。ただインクが塗布される場所印刷用紙であって、布や革ではない…色を表示する素材がプリント用紙だけだという点が異なる。
 蛍光灯で照らされた教室で風景写真の空の色が「濁ったような青」に見えた話をした。ファインダーで見たときにはもっとスキッとした青だったはずなのに、プリンタで印刷した結果はやや濁った色になってしまう。
 撮影時の色と見比べれば気づくかもしれないが、印刷結果を見るときには撮影時の空と見比べる機会はないので「空はこのような色だ」と、無意識に暗示を受けていないだろうか。実際に目に届いた色とカメラで捉えて印刷した画像の色とを比較することは稀なので、プリント結果の条件等色など意識の外なのだと思う。
 現実世界の服やバッグと同じで、プリントした画像も環境光による条件等色の影響を受ける。これは実際に目に届いた色の情報と、そのばで感じ取った風景の印象との差異という問題とも関わってくる。

 環境光と色の話の次は、印象によって生成された色と実際に目に届いた色との差異、映像出力~ディスプレイとプリンタの出力と色との問題などを考えようと思う。



# by horonekop | 2023-05-07 19:26 | 画像技術
■前口上
 スマートフォン(スマホ)で誰もが簡単に写真を撮影できるようになって、「カメラという道具」の人気が薄らいでいる。それはそれで悪いことではない。ただあまりにお手軽に写真(静止画も動画も)を撮れるようになり、「意図通りの映像を入手する」ことに、多くの人がさほど注意を払わくなってきたようだ。
 一般ューザーの話ではない。一般ユーザーには余計な知識に振り回されないで、自由に映像を入手していただきたい(もちろん法やマナーを守りつつ)。気になるのは「映像を作る人達、映像制作を学んでいる人たち」である。
 映像を入手するためには、最低限「光」が存在しなければならない。そんな「光のこと」をさほど意識しないまま映像作品を創作しようとしている人たちが、なんか目立っているような気がしている。
 日記や作文を書くときに、文字や文章の扱いをわかっていなければ意図は正しく伝わらない。しかし映像は、カメラという機械(映像取得装置)さえ扱えれば、とにかく「絵は撮れて」しまう。
 創作物を提示するなら、ただ撮れればよいというわけではない。詩や小説を書くなら、文章を他者に伝えるための知識が必要になる。ということで、映像を入手するための最低限の知識として、光と色の問題をもう少し突っ込んで捉えておきたい。

■触覚の次に視覚を獲得
 我々は日常、様々な「モノ」に囲まれて生活している。モノが存在することを認識するためには、その「モノ」の存在を認識しなければならない。そのために有効な機能が視覚であり、視覚を機能させる第一義の器官が「目」である。
 太古、人類が生まれるより遥か昔、我々の祖先は光の届かない水中で暮らしていた。そのときにはまだ視覚を持たず、おそらく触覚で水を感じていた。やがて移動し、周囲の状況を知るために鰭(ひれ)ができ、それが届かないときの状態を知るために視覚器官~目を獲得した。
 体を擦り寄せなくても安全かどうかを知るために、触覚の次に必要とされたのが「視覚」である。ちなみに、視覚、聴覚、嗅覚、味覚は触覚の変異機能である。

■見るためには光が必要
 視覚によってモノを見るときには、対象になるモノに光が当たっていなければならない。真っ暗闇では何も見えない。
 光にも強弱~濃淡があり、それに次いで「色」を判別できるようになった(色の識別は高度な機能である)。色を識別する種に重要なものが、何度か取り上げた「環境光」という存在だ。初回(光と色の話<1>)に取り上げた夕焼け空の場合なら、赤や橙(オレンジ色)の光が周囲の人や物を照らす環境光となり、白いシャツは赤やオレンジ色に見える。
 しかし我々は周囲の状況から「赤っぽい光が当たっている」ことをわかっているので、夕焼け空の赤を差し引いて、シャツは赤くない…おそらくは白、または白に近い淡い色だろうと推測できる。
 これはあくまで「推測」であって、それを見た人間の目(網膜)には赤いシャツが写っているのだが、それが「赤い夕焼けに照らされたシャツ」だと経験(または感覚でなんとなく)わかるから、目に写った映像から赤を差し引いて「白いシャツ」だと受け取ることができるのだ。
 赤い色を差し引く作業は、視神経を通った脳で行われる。決して頭の中に赤を省くフィルターが入っているわけではない。目に届くのはあくまで「赤(っぽい色)」である。

■蛍光灯型のLEDに注意
 家庭でも商業施設などのビルや倉庫、工場でも、室内の照明には蛍光灯がよく使われている。蛍光灯は蛍光管の中で電子を拡散させ、それを管の内部に塗布された蛍光塗料が受け取って発光する仕組みで、発光する塗料によって昼光色、昼白色などの種類がある。
 既に述べたように、電子を拡散するため、蛍光灯では緑色の光も発散しているが、人間の目には「白い光」として認識される。ただ、機械の目(=カメラ)は緑色の光を捉え、映像はその影響を受けてしまう。
 近年は蛍光灯型のLED(発光ダイオード)が一般的になってきた。蛍光灯型のLEDは電子を発するわけではないので、当然だが緑色の光は発生しない※。

 ※LEDは赤・青・緑の三原色を個別に発光するため、照明の色を自在に変更できる。ちなみに青色のLEDを開発するのは20世紀中には不可能だと言われていたが、日本の中村修二氏らによって成功し、ノーベル物理学賞を『授与した。これによってLEDで白を含む可視光がすべて表示できるようになった。

■静止画ではWB自動調整に頼らない
 家庭や店舗の照明が蛍光灯なのか蛍光灯型のLEDなのかで、映像の色が変わってしまうことになる。ただしデジカメでWB(ホワイトバランス)を自動に設定していれば、電子による緑色の影響は現れない。
 動画の場合も同じで、動画を撮影するビデオカメラにはデジタルのスチルカメラと同じ「ホワイトバランス調整機能」が備わっているので、環境光を意識せずに映像を取得できる※。
 なお静止画の撮影でWBを自動に設定しておくと、「被写体がどのような光源で照らされているのか」を撮影時に意識しなくなってしまうので、WBを自動にすることはおすすめできない。
 室内照明では蛍光灯の他に白熱電球(タングステン球)もよく使われる。フィラメントに電気を流して発熱させることで光を発するため、白熱電球に照射された被写体を撮影するとオレンジ色の影響を受ける。これもWBを「電球」に設定しておけばオレンジ色は抑えられ、太陽光(白い光)で撮影したように写せる。

 ※デジタルカメラのホワイトバランス調整機能は、もともとアナログのビデオカメラに備わっていた機能で、それをデジタルのスチルカメラにも搭載したもの。フィルムカメラにはホワイトバランスの調整機能はなかったが、デジタルカメラができたときに、ビデオカメラに搭載されていたホワイトバランスの機能が付加された。デジタルカメラの機能は、アナログのビデオカメラから来ているものも多い。

<コラム>静止画ではこまめにWBの確認を
 WBを電球または自動に設定しない場合、デジカメで撮影すると全体がオレンジ色にカブった映像になる。夕焼けの場合と同じで、人物が白い服を着ていて、そのことを撮影者が理解していれば「白い服」だと認識するだろう。
 しかしそのことを知らない第三者が同じ写真を見ると、オレンジ色っぽく見える。撮影意図によっては、あえてそのような色カブりを見せることもあるだろう。
 どのようなときでも白い太陽光で撮影したように見せる必要はない。あえて自然な天候で撮影して、色かぶりを見せる場合もある。
 ホワイトバランススのように、一度設定するとそのまま撮影を続けてしまう恐れのある機能は、自動調整に任せっぱなしにしておくとついそのことを忘れがちになる。
 同じシーンを続けて撮影するのが当然の動画では便利な機能だが、ひとコマ1コマが作品として鑑賞される可能性のある静止画像(スチル写真)では、色の表現までコマごとにこだわりたい。効率重視ではなく、表現意図重視でありたい。

■精肉コーナーの蛍光灯
 服や化粧品などの場合は販売する側も、撮影時に色を意識することは多いが、食品でも同様に環境光による被写体の色が重要になる。
 特に「肉」を蛍光灯で照らす場合、昼光色では普通なのだが、昼白色の蛍光灯で照らすと、生の肉が少し青みを帯びて見えるので、肉が腐っているように見える。このことは精肉店の店員やチラシを撮影するフォトグラファーも当選理解している。
 この肉の見え方は蛍光塗料のせいなので、昼光色の蛍光灯では腐った色には見えない。

■服や小物の色に注意
 食品なら売り場の照明を変更すれば、見た目の色を変更できる。衣類も店内や売り場の中なら、色の問題は気にならない。しかし衣類や持ち物は、購入すれば自分の家の中や外で見られることになる(下着は外で見られないと思うが^^;ゞ)。
 そういった服や持ち物は、店舗や売り場ではなく、個人の家の中や屋外で色を見られることが多い…と言うか、店舗以外の場所、電球や蛍光灯、太陽の下など様々な環境光で照らされることが大半だ。
 服や持ち物で問題では、色が違うから蛍光灯を付け替えればよい」わけではない。
 モノの色は形と同じように「反射光」で識別される。同じような素材でできていて、しかしやや違う「似たような色」だと、日中の晴れた空では違うことがわかるのに、夕焼け空の下や電球に照らされた部屋では、どちらも同じ色に見えてしまったりする。
 お店で服、別のお店でバッグ、自宅でそれら似合う靴を選んだ結果、それらを身に着けて外出すると、服もバッグも靴も、外で見るとどれも微妙に色が異なり、ちぐはぐな印象になる…といったことが起きるわけだ(図1、図2)。

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図1 :陽光の下(日中晴天屋外)では異なる色

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図2:電球(タングステン光)の下では同じ色??

■違う色が同じに見える??
 異なる物体の色が同じに見えることがある。赤い服が青く見えるといったとんでもないことではもちろんない。グレーやベージュのような中間色の場合、例えば茶系や赤系のグレーのように「違うけれど基本の傾向が似ているような場合、昼間の太陽光だと色の違いがわかるけれど、オレンジ色の要素が強い電球の下で見ると、両方とも同じ色、あるいは似たような色に見えてしまうことがある。
 色は周波数によって違うだが、その強弱は素材によって一様でではない。物体によっては反射する物体の色が、素材や環境光によって微妙に異なり、結果、違う色なのに同じ、または極めて近い色だと受け取ってしまうのだ。
 物体の素材が金属と布のように表面の反射が大きく異なっていれば、似た色であっても質感が違うために色の混同は発生しにくい。ややこしいのは素材が似ている~表面の反射特性が近い素材の場合だ。
 素材の色は「どの部分をどういう傾向で反射するか」という「分光特性」によって変わってくる。どの色がどの色と同じに見えるかは、環境光と素材の分光特性によって変わる。
 このような、実際には異なる色なのに同じ色に見えてしまう状態を「条件等色」(メタメリズム)と呼ぶ。デザインの現場では条件等色は重要な知識で、ファッション系の写真でも必須の知識だ。
 条件等色の現象は衣類や小物など外光、室内光など環境光が時々変更される状況で意識されることが多いが、室内の家具や食品などでも発生する。精肉コーナーの生肉のように、照射する光を切り替えれば、違う色が同じに見えてしまうことはあるのだが、室内の照明がコロコロ切り替わることは滅多にないので、意識していないだけなのだ。
 また、写真だけではなく、絵画などでも発生しうる。
 条件等色によってモノの色に素材の質まで影響を受け、印象まで変わってしまう場合がある。映像によって物事を伝えるとき、光を意識することが非常に重要なことだとわかるだろう。

 次回は条件等色の仕組み、モノの色、色と意味の問題などを取り上げようと思う。

# by horonekop | 2023-04-13 21:04 | 画像技術

■前口上
 前回の記事は文字だらけだったので、今回は図を中心に前回の三原色の説明を補足したいと思う。

■インクと光の三原色
 ひとくちに三原色と言っても、色が目に届いて認識される結果には、反射l光と透過光の二種類の三原色があると説明した(図1 図2)。反射光と透過光…まったく異なる種類の色なのかと言えば、決してそうではない。これらは目への届き方、つまり視覚を刺激する以前のプロセスが違うだけで、「色を識別する」というレベルでは「同じ色の仲間なのである。
 反射光の三原色と透過光の三原色、2つを組み合わせて輪にすれば、前回示したように6色のグラデーションになる。波長の短い赤を先頭にすれば、黃→緑と中間の波長になり、一周回ると波長に短い青→紫…となる(図3)。
 この様子を「色相環」と呼び、Photoshopなどのグラフィック・ソフトの色選択でおなじみと思う。

うみねこTech~光と色の話<2.5>補足・図版_e0359459_19101351.jpg
図1:反射光の三原色

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図2:透過光の三原色

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図3:色相環

■2つの色が重なったところ
 反射光の三原色は、すべてを均等に混ぜれば「黒」になる。透過光の三原色は、均等に混ぜれば「白」になる。前者が「加色混」、後者が「減色混」ということは前回述べた。
 この「均等」というのはあくまでデータ上の均等であって、実際にはかなり難しい。輪転機などを使う印刷※では、各色の中間の濃度を網点の密度で表現して版を作るので、濃度のばらつきによってなかなか意図通りの色にならない場合もある。
 機械を使った印刷ですら難しいのだから、絵の具を手で混ぜる場合には至難の業だ※。
 小学校の図工(図画工作)や中学校の美術の授業で「色の三原色」として「赤・青・黄」と教わったが、この3色の絵の具をパレットでいくら混ぜても、真っ黒(=純黒色)にならなかったことを覚えている人も多いと思う※。
 絵の具の分量が均等でないこともあるが、そもそも赤と青ではなく「シアン(青っぽい水色)」と「マゼンタ(赤紫)」なのである。もともと色が異なるので、いくら混ぜても真っ黒になるわけがない。
 パソコンが使われるようになって、インクジェットプリンタのシアン、マゼンタ、イエローというカラーインクの名称が一般に知られるようになり、三原色の教え方が変わってきているようだ。

 ※部数の少ないカラー印刷では、大きなテーブル(平台~ひらだい)の上で紙に版を擦り付ける方法が使われる。
 ※本の表紙やポスターなどでは、重要な色((例えば金色)は「特色」といって、熟練した職人さんが混ぜ合わせてインクを作り、それを紙に転写することも多い。
 ※黒っぽくて濁った「どどめ色」になってしまう。
 ※教科書では「レモン色・セルリアンブルー・マゼンタ」と表記しているようだ。小中学校では透明水彩を使わないので、混色の結果が意図通りにならない場合も多いと思う。ちなみに、ホルベインなどの絵の具メーカーから、シアン・マゼンタ・イエローの三原色透明水彩絵の具が発売されている(https://www.holbein.co.jp/blog/newproducts/a370)。

■所業印刷では最後に黒の版を
 商業印刷ではパソコンによる印刷のように1回で複数の色を出力するのではなく、インクの色ごとに異なる版を使って多色摺りを行っている。普通はシア、マゼンタ、イエローに黒を加えたCMYKの4色カラーが一般的。
 1つの版で網点を使って濃淡を表し、黒い部分は黒インクで印刷する。日本では、黒色の版を「スミ」と呼んでいる。版画で言う墨から来た呼び名で、文字を印刷するときに墨版が基本になるため、この黒色の版を『キープレート』と呼んでいる。
 CMYKのKは「Kuro]とか「cblacK」を略したものではなく「キープレート」の「K」である。
 ちなみに最も濃い黒は、三原色を重ねた最後に印刷される。インクジェットプリンタによるパソコンの印刷でも、基本的には黒インクが最後に出力される※。

 ※エプソン製のインクジェットプリンタでは、双方向印刷機能が用意されており、其の場合は黒で印刷したあとプリンタヘッドが戦闘位置に戻るときに逆順~つまり黒から先にインクを塗布する。

■二色を重ねれば反射光と透過光が入れ替わる
 三原色についてあと少し補足しておこう。
 図1,図2を見れば、2つの色か重なった箇所が反射光の三原色なら「透過光の三原色」に、透過光の三原色なら「反射光の三原色」になっていることがおわかりだろう。
 反射光と透過光の三原色を並べれば、赤~紫の6色になる。これに白を加えれば虹の7色が出来上がる。
 色は透過光とか反射光といった見え方(目への届き方)で分かれているのではなく、周波数の違いに従って異なる色で認識されているだけで、すべてが直線上に並んでいるだけである。それを可視光だけを取り出して円状に配したものが図4(の虹のスペクトラム)である。

うみねこTech~光と色の話<2.5>補足・図版_e0359459_19091867.jpg
図4:色相環

■反射と透過は目に届く前の違い
 虹の七色(スペクトラム)を見れば、図4のように反射光のCMYと透過光のRGBは互い違いにきれいに並べることができる。これを図1と図2のように分けて眺めれば、
 反射光のCとMを混ぜれば、残ったYの補色である透過光の青になる。
 透過光のRとGを混ぜれば残ったBの補色であるYになる。
…という具合に、三原色のうち2色を混ぜなわせれば、残った色の補色になることがおわかりいただけるだろう。
 反射光、と透過光というのは色が視覚に到達して認識される以前のプロセスの違いであり、視神経を刺激する段階では、突き詰めれば「同じ色の(周波数だけが異なる)仲間」だということだ。

<コラム>
 「虹の七色」という言葉を用いたが、国や民族によって、虹の色が7種類に分かれていない(視覚的に認識されない)こともあるそうだ。言語学の鈴木貴男先生によると、ベトナムでは2色しか認識されないという。
 色の認識は民族、風土などによって必ずしも世界共通ではない。鈴木先生によると、フランスでは日本で言う「茶色」は(英語で言う)「YELLO」と表現するようだ(茶封筒はBROWN ENVELOPでは通じず、YELLO ENVELOPでなければ通じない)。
 僕の知る限りでは、北米では牛の色を紫と表現するし、北欧では土を茶色ではなく黒と認識するらしい。

 今日の話をベースにして、次回は服やバッグなど照明や素材によって違う色が同じに見える現象について考えてみたいと思う。





# by horonekop | 2023-03-23 19:58 | 画像技術
■前口上
 この記事は週一くらいのペースで書いていこうと考えているのだが、2月~3月は確定申告のシーズンなので、それも大学を辞めてフリーの物書きに戻ったものだから、税金の申告でやたらと手間取ってしまい、ゆっくり執筆する時間が取れなかった。
 以前は大手の出版社(K談社とかSトバンクとか)がお得意先だったので収支の管理は間違いなかったのだが、今は小規模の会社で経理が不安定らしく、申告期間ギリギリまで税理士さんの手を焼かせてしまった(ここで愚痴っても仕方ないけど)。
 そんな訳でドタバタして、執筆が遅れてますがお許しをm(__)m

■「日中晴天屋外」は色評価の大前提
 前回触れた「日中晴天屋外」…南中の空の中央でチリなどのない上空、昼間の太陽の光…これが写真の大前提だ。太陽の光は、我々自身やその周囲の「人や物」を照らす。その照らされた光を反射することで、我々は「世界を見て」いる。
 我々が日常目にしている世界は、太陽の光が反射した世界だ。
 赤・緑・青の三原色が均等に降り注ぐ白い光、余計な物体の存在しない「何もない中空」で、目的物~被写体(からやってくる光)だけを捉えるのが大前提であり、理想であるわけだ。
 スタジジオなど屋内で撮影する場合も、白い太陽光が前提である。もちろん曇りや雨が前提となる状況もあるし、夜間で人工光が降り注ぐシチュエーションもあるだろうが、まずは日中晴天屋外の環境が色再現の基本だ。

■色評価照明を知っていた学生
 20世紀は、写真と言えば男性の趣味の代表格だった。それが2000年に入ったあたりから、写真を学ぶ女性が増え始め※、2005年頃には写真を学ぶ女子学生が男子学生より多くなった。デジタルカメラが主流になり始めた頃だ。
 その後、学生の男女比率は同じくらいになったが、数年前、父親がカメラの仕事で保守をしているという学生が入学してきた。道具としてのカメラに関心を持つのは、いかにも男の趣味という感じだが、そういう男子は思ったより少数だ※。
 その学生に話を聞くと、父親の仕事を見て、プリントした写真の色を確認するための「色評価照明」を知ったという。デジタルカメラの回路などにも詳しく、「今の時代の男子」という感じだった。
 印刷やデザインの現場では当然知っていることだが、写真学科では学生はもちろん教員でも知らない、あるいは知っていてもそれがどのような役割を持っているかわかっていないことが多いものだ。
 なので、その学生に出会ったときに正直ほっとした(笑)。

※写真に興味があるが人には、カメラという道具に興味があるタイプと、撮影することに興味があるタイプとに分かれ、男子の場合は前者のタイプが多い…という傾向はアナログ写真全盛の時代の話。
※綿矢りさや金原ひとみが文学賞を受賞するなど、文学の世界で若い女性の活躍が注目された時代。写真の世界でも蜷川実花やHIROMIXらが注目を浴びた。

■写真学科の色評価照明
 大学の建物は、教室も事務室もすべて蛍光灯である※。蛍光灯は管の中で発生した電子を拡散し、蛍光塗料を発光させる。人間には白い光に見えるが、電子が拡散するときに実は緑色の光を放っている。アナログのデイライトタイプのカラーフィルムで蛍光灯に照らされた被写体を撮影すると、緑色の光が映る※。
 この緑色の光を抑え込むのが、色評価用の蛍光灯だ。

※現在、教室、スタジオなどの照明をLEDに変更すべく工事が進んでいる。
※デジタルカメラでもホワイトバランスを「太陽光」に設定していれば、蛍光灯の光が緑色に映る。

 色評価用の蛍光灯は、緑色の光を抑え、太陽光に近い白い光を照射するようになっている。デジタル実習室では、この色評価用の蛍光灯を使ったライトボックスが1台配備されていたが、それだけでは心許ないと思い、僕が担当していたときにLEDの蛍光灯型スタンドを2台配備した。
 それをインクジェットプリンタの近くに設置し、印刷結果をすぐに評価照明で確認できるようにした。別の授業で他の教員が広い教室に学生を集め、プリントした写真作品を講評する授業があったのだが、その教室で学生が持参した作品を見ると、特に空の色が灰色がかって見えた。
 その日は夏休み明けの授業で、学生たちは夏の記録として海や山の風景を撮影したものが多くあった。だから青空を撮影した写真が多く、その色の不完全さが目立ったのだろう。
 写真の講評では、窓に黒い遮光カーテンを貼り、天井に取り付けた(昼白色の)蛍光灯で作品を照らす。アナログのモノクロ写真を講評していたときには気付かなかったが、インクジェットプリントでカラー作品を、それも海や空の写真がたくさん並んでいると、発色の不完全さが目立つ。学生にはEPSONまたはCAONONの光沢紙を推奨しているが、夏休みだと自宅のプリンタを使うことが多いため、インクの違いもあるだろう。ただ、CANONとEPSONもインクは、耐光性と耐水性には違いがあるが、発色の傾向には大きな差はない※。

※インクジェットの元の特許はCANON(バブルジェットという名称)だが、用紙に対する発色の傾向はよく似ている。これについてはインクジェットプリントの遠ころで詳しく触れたい。

■LED照明に変更予定だけど…
 近いうちに写真学科のデジタル実習室も、LED照明に変わるだろう、そうなれば写真作品を太陽光に近い環境で鑑賞できようになるかもしれない※。
 やがてすべての照明を太陽光に近い白色に設定できるかもしれないが、僕としては全教室をLEDDの白色光に揃えてしまうのには反対である。
 人間は蛍光灯の発する緑色の光を脳内で省き、白い光と認識する。そのため、一般家庭用の蛍光灯でもLEDで調整した照明でも、どちらも見た目には「白い光」と感じてしまう。
 だから、写真学科の教室では、普段は一般の蛍光灯で写真を照らし、スイッチを切り替えることで太陽光に近いLED照明にできるようにすることをおすすめしたい。
 こうしておけば、同じ白色の照明でも、蛍光灯とLED照明とで発色が異なることを実体験できるだろう。その上で、環境光によって物体の色~さらには質感まで違って見えることを学習できる。
 学ぶ場としての学校では、なにかと最新の機器を取り入れて学生にサービスすることを評価しがちだが、あえて旧来の環境を残し、新旧の状態を見比べることで、体験に基づいた学習をできることが望ましいと思っている。
 特に蛍光灯やLED照明は日常生活でも当たり前に触れる環境なので、両者の違いを体験的に知っておくことは重要だ。

※LED照明に変えればOK…というわけではない。LEDの光を可視光すべて均等にできなければならない。そのためにRAという指標があり、RA80以上の演色性が色が白色に近いことを示している。詳しくは「LED 演色性 RA」の語で検索を。

■似ているようで異なる「光と音」
 教室の照明の話題はここまでにしておき、写真の色評価…「日中晴天屋外」に戻そう。
 太陽の光は上空から降り注ぐ。そのため撮影では、ヒトでもモノでも上からの光で撮影するのが前提だ(下からの光で顔を映すとホラーのようになるのは、日頃見慣れていない光の使い方だから)。スタジオではアンブレラ(傘形の反射板)などで光を平行に近い状態にすることはご存知のとおりだ※。この光を低い位置に配置し、赤を強くすれば夕方や夜明けの光を演出できる。
 光の色と照射位置、角度によって、映像の意味合いが変わってくるが、その大本(おおもと)は日中晴天屋外の太陽光で照らされた状態だ。

※懐中電灯の反射板と同じ理屈で、光源を凹面鏡に反射させることで平行に照射できる。

 「赤・緑・青の三原色が均等に」とか「紫や青の光が乱反射して」と表現しているが、光は音のように特定の要素だけが粒となって目に届くわけではない。夕焼けなら赤や黃の短い振幅持った光の要素が強く人間の目に届くだけであって、光そのものは色・波長ごとに明確に分離しているわけではない。
 小学校の理科で、プリズムを使って太陽光を分離させる実験を見たことがあるだろうか? 雨上がりの虹と同じで、赤と黄、緑と青との境界は明確ではない。光は管楽器と弦楽器のように音色で識別できないので、すべて混じった「ぶっこみ」で目に届く。
 実は音も❝ぶっこみ❞で届くのだが、人間の聴覚がそれらを分離して解釈している。音と光は似ているようで異なる。そりゃあ秒速340m(音)と秒速298万km(光)では、本質的な違いがあって当然だ※。
 ちなみに、実生活では光より音による刺激のほうが、人間の応答速度が速いようだ。JAF(日本自動車連盟)とNHKの実験によると、テストコースを走行中の自動車のドライバーに緊急停止の合図として、突然ライトを光らせて知らせるのとブザー音によって知らせる方法とでブレーキを操作する速さを計測すると、光より音での反応のほうが一瞬早かったそうだ。これには脳と筋肉の反応速度のち外も影響しているようだ。視覚情報は脳で解釈してから筋肉の動きに変換されるのに対し、聴覚を刺激されると反射的に筋肉が動くらしい。

※音と光は性質が全く異なるので、振幅だけで比べられるものではない(念のため)。

■光の三原色とインクの三原色
 さて、光の話に戻ろう(今日は話題があっちこっちに揺れるなぁ、いつものことだけど^^;ゞ)。
 我々は世界を物体からの反射光で捉えている。このとき引き合いに出されるのが、赤・緑・青の光の三原色だ。3つの原色をすべて均等に混ぜると「白」になる。こうれを減色混という。もうひとつの色の混ぜ方にはシアン・マゼンタ・イエローのインクの三原色がある。インクジェットプリンタですっかりおなじみになった三色だ。昔は赤・青・黃と言っていたが、今は正確に水色(シアン)・赤紫(マゼンタ)・黄色(イエロー)と小学校でも教えている。
 このインクの三原色こそが、太陽光を受けて反射した色の三原色だ。三色を均等に混ぜると「黒」になり、混ぜることで色が黒に近付くので加色混と呼ぶ。
 赤・緑・青は光そのものの三原色で、反射光に対して「透過光の三原色」と言われている。太陽や電球に照らされたのではなく、自ら色を発している~光を発している物体の色であり、テレビがその典型だろう。
 昔は自ら光を発する存在などなかった。強いてあげれば月や星だが、それらにしても根本は太陽光線で、損p反射光にすぎない、
 透過光によって外の世界を見る経験は、テレビから始まった。映画も透過光のように思えるが、フィルム越しにはなった映写機の光を、スクリーンで受け止めてその反射を見ているので、映画は反射光のメディアである。
 この媒介「~メディアの質~反射光かどうかによって、情報の受け止め方が異なるという説明が、1970年代にマーシャル・マクルーハンによって行われた。
 それまでマス・コミュニケーション論(学)としてまとめられていた社会学の分野にメディア論(学)という分野が築かれたのだ。

■反射光のメディアと透過光のメディア
 マクルーハンによると、新聞、雑誌などの反射光による文字メディアと、テレビによる透過光の映像メディアとの伝達のされ方の比較…といった例を挙げ、同じ情報でも反射光と透過光とで受け取り方が異なると論じた。
 端的に述べると、反射光による情報では情報に対して批判的、懐疑的態度を取るのし、透過光のメディアでは情報を抵抗なく受け入れる傾向が強い…これには、文字(規格化された活字情報)と動画という伝達方法の際もあるが、同じ資格の刺激でも、文字と動画(動く映像と音声)で同じことを伝えても人々の受け取り方が異なる…というロンは襲撃的だった、
 まだインターネットはおろかパソコン通信さえ存在しない時代である。
 これに続いてアルビ・トフラーの「第三の波」ーThe Third Waveーが注目を浴び、印刷・放送に継ぐ次ね¥のメディアとしてコンピュータに要通信が光を浴びることになる。1980年代初頭…まだ米ソ冷戦真っ只中の時代である。

<余談>
■写真学生の男女比の変化
 僕は芸術大学の写真学科で教師をしていた。
 大学で写真を学ぼうとする学生は、中学・高校で写真部に所属していた男子が多い…ように思うかもしれないが、実はそういうわけでもない。2000年代になった頃から、カメラにあまり興味を持っていない学生、機械物に関心を持たない女子も増えはじめ、男子より女子学生のほうが多くなった時期があった。
 1990年代の終わり頃から、カメラ女子という「言葉が広まり始め、カメラという道具が「男の趣味」だけではなくなり始めた。デジタルカメラが主流になった頃だ。世間では「カメラと言えばデジタル」という空気になっていたが、大阪芸大の写真学科では、男性教員がフィルムカメラで撮影を教えるのが基本で、デジタル写真はまだ「未知の道具」扱いだった(信じられないかもしれないが、僕が教員になった2001年には、デジタルで写真を撮影する教授が1人いらしただけだった)。
 一般社会ではまだデジタル写真はそれほど一般的ではなく、フイルムカメラで写真を撮る社会人女性が多かった。社会人でデジタルカメラに飛びついたのは、男性…デジタル写真を趣味とする女性は、2001年にシャープから発売された「カメラ付き携帯電話」(sh-04)がきっかけになったようだ。「写真機械」という大層な道具ではなく、電話やメールと同じ手間で写真も撮れる…その気軽さが(特に若い世代に)受け入れられたのだろう※。
 写真学科ではその後もしばらく、最初に教わるのはモノクロフィルの現像~プリントだったが、次第にフルムや印画紙、現像液などが市場から姿を消し、デジタルカメラとパソコン、プリンタが制作のための機材となっていったのだ。

※写真撮男女の関心の違い(いわゆる性差)「については。僕の根底のテーマなので、別の機会に詳しく触れたいと思う。

<余談の余談>
 同じニュースをテレビで見るのと新聞で読むのとでは~透過光で見るのと反射光で読むのとでは情報の印象が異なってくるというマクルーハンの説について、SNS上で学生たちと意見を交わしたことがある。
 なかなかおもしろかったが、「映画とテレビを比べての同じ。この議論は無意味」という参加者(社会人)の意見が闘技に水を指し、やり取りが流れてしまった経験がある。
 どうもその人は「同じドラマを映画で観るかテレビで観るか」という捉え方をしていたようでmそもそもマクルーハンとかメディア論とかとは縁遠い立ち位置からディスカッションに割って入ってきたようだった。
 もう少し時間があれば立ち位置を修正してあげたのだが、頭から「やっても無駄」という姿勢だったので、。やむなく「打ち切りにした経緯がある。
 機会があれば、基本のところをわかている人でまたディスカッションしてみたいなと思っている。
 (マクルーハン 透過光 反射光 ホットメディア クールメディア ラジオ テレビ オーソン・ウエルズ 火星人襲来 …なんかがキーワード)

 ということで、今回は寄り道だらけだったけど、次回はデイザイン、ファッションやコーディネート~色の取り合わせなんかのお話。
 あと、今回は余裕がなかったので省略した三原色、補色、色相環などの図も追加しようと思ってます。ではまた!


# by horonekop | 2023-03-14 19:01 | 画像技術
■前口上
 大学で写真の知識、技術の指導に携わって20年を超えた。そろそろ違う分野にも活動の場を広げようと思い、大学を辞めることにした。教育という仕事はなかなかに面白かったし、学生たちとの関わりも楽しいものだったが、教員としての「あり方」に限界を感じていたところでもあった。
 細かいきっかけは色々あるけれど、まだ学生たちに伝え残したことがいくつかある。その伝え残したいくつかを、ここで拾い上げていこうと思う。「学校というシステム」を取り払い、また「写真」という形にこだわることなく、語り漏らしたことどもを、ポツポツと拾っていこうと思う。

 まず1つ目は「色の再現」である。これは大学の授業、特に実習では時折取り上げてきたが、まだ伝わりきっていないように感じる。さらに詳しく取り上げていきたい。
 今は写真といえばデジタルが当たり前だが、その根底にある「モノクロのアナログ写真」を踏まええつつ、コンピュータを介した「色の見方、見せ方」についてあーだこーだと御託を並べるつもりだ。

■夕焼けはなぜ赤い?
 写真は絵画と違って、現実のブツ(被写体、風景や人物)を写し取る。そのとき空に「色」が着いていれば、被写体は空の色に照らされてその影響を受ける。空が夕焼けで赤く染まれば、被写体も赤い色に照らされる。
 舞台上でライト(照明)を当てたような感じだ。これを「環境光」という。光は《色》を持っている。色は光の振幅によって変わる。人間の目で識別できる色の範囲はおよそ400nm~800nm…400nmより短い領域を赤外線、800nmより長い領域を紫外線といい、肉眼では識別できない※。
※nm:ナノメートル。10−9メートル =10分の1メートル。
 太陽の光が白く見えるのは太陽が登ってからしばらく経ち、頂点に達して地平線に沈む少し前までの間だ。地平から現れるときと利平に沈む前には、太陽の光は赤く見える。
 これが朝焼けと夕焼けである。太陽が地平付近にあるときには、地表の大気に存在する《ちり》や水蒸気によって光が乱反射し、波長の短い青~紫の光が地表まで届きにくくなる。
 そのため、赤から黄色の波長の長い光だけが地表に届き、朝焼けと夕焼けは赤から橙色に見えるわけだ。
 太陽が中空に近づくに従って赤から紫までの可視光の範囲の光が全て均等に届くようになり、赤・緑・青の三原色が揃った白い光に見えることになる。
うみねこTech~色と光の話<1>_e0359459_18210342.jpg
※日本語では可視光の範囲から外れた波長は「赤外・紫外」と表現するが英語では赤外はinfra red(赤のさらに下)、紫外はultra vioret(紫よい上)と、波長の範囲がわかりやすくなっている。
■地球が回れば太陽の色は変わる
 実は太陽の光は、天空の移動(=地球の自転)に伴って、刻々と色が変化している。ただ、日常の生活では可視光がひと通り注いでいる昼間は、赤から紫までのすべての可視光がひと通り届くため、白い光に照らされた世界を違和感なく認識できている…ということだ。
 ちなみに、可視光が全て均等に届くのは、地球の中心が太陽の中心と真正面に向き合ったとき、いわゆる南中の時間である。

■太陽光はホントに平行?
 可視光線が均等に届く状態とは、簡単に言えば赤・緑・青の光の三原色が均等に物体に照射し、色の偏りがない「白い光線」の状態のときだ。それが晴れて雲のない南中のときなわけだが、「おや、ちょっとまてよ?」と思った人もいるかもしれない。
 太陽からの光は、果たして三原色(可視光すべて)均等に地表に届くのものなのか? 太陽も星なので、その光は球体から発せられる。太陽は平面ではないので、裸電球のように中心から外に向かって放射状に光を発している。ならば角度によって地球に届く光の波長が微妙に変化し、すべての可視光が揃ってある一点を照射するのは<ほんの一瞬>ではないか? 
 そう思うかもしれない。確かに形としてはそのとおりだ。しかし、太陽の大きさと地球までの距離を考えればそれは取るに足りないことだとわかる。
 太陽の大きさはおよそ140万km…地球の100倍ほどのサイズである。太陽を直径1mとすれば、地球はパチンコ玉くらい。
 それが1億5000万kmも離れているのだ。太陽の表面から地球を見れば(実際には無理だけど)、北極と南極を結んだ線~つまり地球の直径は0.5度程度になる。
 太陽は確かに放射状に光を放っているが、相手(太陽)のスケールがデカ過ぎるため、地球に照射される太陽の光は途轍もなくでかく、ほとんど平面のような緩やかな凸面鏡…ということになる。
 従って地球から見える太陽の光は、波長によって照射角が変化すると考えなくてもよいほど、平行な光だと取らてかまわない。

うみねこTech~色と光の話<1>_e0359459_18211248.jpg
■色評価証明
 さて。デジタル画像では、それを鑑賞するための環境光を意識しなければならない。環境光とは、その画像を照らす光のことである。先程話した風景や人物を照らす光も環境光、作品を照らす光もまた環境光である。舞台の上で役者に赤い照明を照射すれば、人物の肌も衣服も背景も赤い照明の影響を受け、日常感じる色とは異なる印象を与える。
 それでも人間は真っ赤な顔を普通の人間の肌と感じるし、樹木の葉の色を緑だと感じる。照明による「色の偏り」を脳内で取り除き、できるだけ日常生活で感じられる色に補正するのだ。
 しかし、補正のレベルは人によって一定ではない。演劇なら照明によって言葉で表せない状態を伝える効果があるが、絵画や写真では照明によって映像の持つ意味合いが変わってはいけない。そこで、より多くの鑑賞者ができるだけ均一の光の状態で作品を鑑賞できるよう、一定の基準が設定されている。それが「晴れた日の南中の太陽光」だ。

■白い太陽光が前提
 印刷ではインクが乗った紙をこの白い照明で照らし、色の偏りがないか検査する。特に商品写真では、赤なのかオレなのか、赤紫なのかで商品の印象が変わってしまうため、広告物の色については、実に神経を使う。
 これを写真などの「色評価照明」と言い、先程触れた南中時の太陽…三原色が均等に照射されている状態で、かつ周囲に建造物や雲、水蒸気、ホコリなどがない状態を前提としている。
 といってもこのような状態は簡単には作りせないので、余計なもののない空中の太陽光ということで、晴れた日の地上1000メートルの中空の太陽光を前提とした人工光を使用することになっている
 これを端的に「日中晴天屋外」と呼ぶ。印刷やデザインの場でこう指示されたら、「周囲に余計な色彩のない、地上1000メートルの晴れて南中した太陽の光」を思い浮かべていただきたい。

 デザインの現場ではフォトグラファーも知っていることだが、アマチュアはともかく、いわゆる「芸術写真」を制作する人たちも、意外と知っていなかったりする。
 フィルムで撮影していた時代には、作品の色は簡単に変更できなかったが、デジタルで撮影した画像は撮影者の意向によって色の傾向を変更できる。
 そういった「色の表現」まで含めて製作者の意図だと思うので、もっと作品の見られ方にこだわってもらいたいところだ。

ということで、今日はここまで。


# by horonekop | 2023-02-15 18:29 | 画像技術