hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop
 初対面の人に「お仕事は何を?」と尋ねられると、一応「大学教員です」などと答えることにしている。
 実際にそうなんだけど、実のところこういう質問をされると、毎度、何と答えようか困ってしまう。で、まあ当たり障りのないというか、一番わかりやすそうな肩書きを使うことにしているわけだ。
 僕の名刺には大学の他に、文筆業とかデザイナーとか小さな文字であれこれと書き込んでいる。名刺を渡した人はそれを眺め「で、本業は?」などとやはり尋ねてこられることが多いので、上述のように端的に答えるようにしているわけだ。

 大抵の場合、大学教員のようにわかりやすい職業を告げれば納得してもらえる。
 物書きだといえば「どんな本を?」などと訊かれ、コンピュータ関係と答えれば「なにやら難しそうな本を書いているのかな」という顔をされるし、「雑誌に映画のコラムなんかも書いてます」と言うと、怪しいオタクのように思われたり(そんな気がしているだけかもしれないけど)。
 名刺には写真関係の文言はひと言も書いていない。大阪芸大写真学科とは書いているから、「写真の先生ですか」と言ってくる方はいる。それはまあその通りなので「はい」と答えると、主に男性からはデジカメの話を振ってこられたりする。「SONYのXXXっていうxxx万画素のカメラを買ったんですけど、ズームの倍率が…」などと質問されたりすることもあるけど、カメラマニア向け雑誌の記事みたいなことは専門外というか関心の外なので、よくわからないと言うと「なんだ」みたいな顔をされることもしばしば。
 どうも写真の先生ってのは、カメラ雑誌のレビュー記事みたいなことに詳しいと思われているようだ(インクジェットプリンタのインクとか用紙と色再現については詳しいけれど、デジカメマニアはそういうところに関心が薄いみたい)。
 昔、Webの記事で(記事本文の参考としてついでに)キヤノン製品の発売順を取り違えたら、デジカメマニアのネット掲示板で、ある人(当然匿名)から「写真の先生が絶対に間違えてはいけないことを間違えやがった」と非難されたことがある。アホか? 俺はヨドバシカメラの店員じゃないっての(笑)
 それを知ってのことだろう、教員仲間から「あんたは写真家を名乗らない方がいいよ」とご丁寧にも得意げにアドバイスされた。Photoshopで「不要な背景は焼き込みツールで消せ」なんてとんでもないことを教えてる奴に、言われたかないよ(お前が教師辞めろ(笑))。

 とまあ、肩書きについてあれこれ言ってみたのは、西野亮廣氏の言っていることが至極もっともだと思ったから。
 少し前の彼のブログ(「革命のファンファーレ」が出た頃だと思う)で、自分の肩書きを固定してはいけないといった旨を書かれていた。

 僕の考えと全く同じ。西野氏自身、自分の肩書きがよくわからないのだという。お笑い芸であり、絵本作家でもあって、他にもCMプロデューサとか、何かいろいろやっている。だからって、彼が何者かわからないこともなければ、何を考え何を主張しているか見当が付かないわけではもちろんない。

 僕も同じで、名刺に表記する肩書きにはいろいろな職業があるけれど、その中の一つをインデックスにして「こういう人」だと断じられても、あるいは勝手に推測されても嬉しくないのだ。
 こういう人なんだ、こんなことを主張している人なんだ、ということは、ブログなり出版物なりを読んで、あるいはもっと詳しく知りたいなら大学で講義でも聴いて、その上で判断いただきたい。
 だいたい、85mmx57mm程度の紙切れに6ポイントくらいの文字で、僕の何が判るっていうのだ?(生まれたところや皮膚や目の色で、一体この僕の…♪以下、著作権抵触を危惧して自主規制(笑))。

 「そういう小難しいことじゃなくて、初対面の人と話すきっかけとして、職業を知るのが最適なんだよ」と、社会人は言うだろう。だったら、職業を聞いた直後に、デジカメやレンズのレビューみたいな話を振ってこないでください。
 いや、聞いてもいいんだけど、「写真ってカメラ雑誌のレビュー記事レベルしか関心ありませんよ」と、自分の浅さを白状しているだけで、話を聞き終えたら「なんだ、写真の先生ってデジカメのことを知らないんだ」と勝手に納得し、結局はこちらのことをわかろうなんてしていないのだとわかってしまう。
 その結果わかるのは「この人は自分の理解できる範囲、読み書きできる文字の範囲でしか世界を見ようとしないんだろうな」と、これまたこちらが勝手に判断してしまうだけだろう。
 そんなことにために、「私は○○業でございます」なんて表明しなければいけないのだろうか? 「私は○○業」と宣言することは、「私は他のことは専門ではないので、お話しできません」と拒否することであり、同時に「○○は専門だから任せなさい」という傲慢な姿勢でもある。
 興味や関心があれば、僕はどんなことでも、専門でなくても首をつっこむし、たとえ専門であってもわからないことはいくつもある。それじゃあいけないんですかね?

 で、話のきっかけとして職業をいろいろ書くのは確かで、名刺を見て「いろいろやってるんですね。器用な人ですね」と、まあお世辞半分でおっしゃる人もいらっしゃる。
 こちらとしては「器用貧乏でして」と頭を掻き、「何とか暇なしでね…」と冗談でごまかしたりすることになる(器用は事実ではないが貧乏は本当)。
 いろいろやってるのは、いろいろなことに興味があるだけ。面白いと思うからやってみて、そのまま面白さが継続できれば仕事になることもあるという、ただそれだけのことなのだ。他に意味はない。
 そこからビジネスにつなげる西野氏のような才覚も、もちろん持ち合わせていない。

 でも、こういうスタンスって理解されないんだよね、なかなか。だから、フォトグラファーを含めて「プロ」と名乗るつもりは毛頭ない。アマチュアでかまわない。暇人の道楽と思われてもいい。
 但し、写真にしてもコンピュータにしても、そこら辺の「プロ」と名乗っている人より理解しているつもりではある。だって、オブジェクト指向をわかっていない人がJavaやC#を教えてたり、PhotoshopやIllustratorの使い方を間違っている人がデジタル画像処理を教えたりしてるんだよ(僕の関わっていない、某教育機関で実際に見聞した話。参りますよ、もう)。

 昔から、学生にはよく言うのだ。「この道一筋ン十年とかって人、かっこいいけど俺にはできない」って。僕は、ただ飽きっぽいだけだと思う。
 若い頃にギターを始めたのは、あの世代の男子なら誰しも思う「かっこよく見せたい、モテたい」という下衆な心理からだったが、そこから城田じゅんじのバンジョーを聞いてすげぇと思い(特にものまねバンジョーは最高!)、必死こいて練習した。
 曲を作ったらもっとかっこいいだろうと思って、音楽理論を勉強し、ピアノの譜面を読み書きできるところまではいけた(弾けないけど)。

 写真も、ステージ上の音楽仲間を撮影したら、特に女子のグループからモテるかなと考えて、そこからハマってライブの写真を撮るようになり、モノクロ写真の現像とプリントに手を染めた(きっかけは常に低俗で、芸術性などかけらもない)。
 ステージの照明はコントラストが高く、なかなか思い通りに捉えられない。それで露出や照明を勉強し、アナログのプリント技術もマスターした。凝り性というわけではないが、納得するまで突き詰めないと止まらない性分なのだ。

 コンピュータも、勤めていたとき職場に導入されたマシンが自分の管理担当だったので、ゲームを作って遊んだりしていた(当時はコンピュータブースがあって、外からは何をしているか見えなかったから(笑))。
 で、暇に任せて仕事で使うプログラムを作った。面倒な作業を減らして、楽をしたかったから。仕事に対しては、立派な怠け者なのだ(笑)。
 お客さんの情報を別ファイルに保存しておけば、番号で呼び出して再利用できると気付き、それが独自のデータベースにつながった。
 本来の仕事をさっさと仕上げ、コンピュータブースに閉じこもって遊んだ末に、C言語からマシン語まで1年ほどでマスターし、グラフィックを使ったフローチャート・エディタなんかも作った。
 そんな中で、当時は存在しなかったバックアップソフト(追加や書き換えられたデータだけをコピーするプログラム)ができちゃったので、たまたま本屋で立ち読みしたパソコン雑誌に投稿したら、記事を書かないかとお誘いがきて、そこから技術系の執筆をするようになった。

 そうこうしているうちに、ある出版社のパーティーがきっかけで、コンピュータのソフトウェア史を文化史と重ねて綴るという連載をやらせてもらい、やっとここで、学んできた社会学と職業が融合。
 そこでは、英語の専門書や技術エッセイの監修(翻訳は専門の会社だったけど、コンピュータによる機械翻訳なので、結局自分で人力翻訳した)もやらせてもらった。
 さらに、ある雑誌の編集長と雑談していて映画の話になり、僕が映画好きだとわかると、後に映画のコラムを書かせてくれた。原稿料はチープだったけど、一番楽しい仕事だった。

 とまあ、僕は実に好き勝手なことをやらせていただいたのだろうと、つくづく思う。
 好きだからこれだけあれこれやれたのであって、必要だから好きでもないことをお勉強して…なんてやってたら、きっと何にもできなかったと思う。
 器用なのではなく、面白いと思っただけ。面白いと思うことがたくさんあり、幸いにもコンピュータの担当で暇が作れただけ。
 話のわかる、あるいは僕のようなトンデモ野郎に連載を任せる度胸をお持ちの編集長に出会えただけ。編集者など、作ることを助けてくれる人に恵まれただけ。
 僕が授業で、ギャラリーの運営者など創作者をサポートする人たちの存在にこだわるのは、そういう経緯を身を以て知っているからだと思う。
 君がどんなに優れたアーティストでも、それを世に出す仲間がいなければただの「上手な人」でしかないのだよ。

 今もまぁ、僕のような野郎に学生を任せるという、度胸のある偉い人が存在しただけかもしれない。
 面白いと、人間は難しくっても頑張っちゃうものだ。頑張れと励ましても、本人が楽しんでいなければ簡単なことにさえ挫折する。根性論など当てにならない。根性や努力に頼れるのは、本人がそれを面白いと思うからだ。楽しくも面白くもないことに根性出して努力するなど、変態である(と、僕は思っている)。

 自分の知っている範囲で、自分以外のモノやコトをさらに知ろうとしても、それは無理ってものだ。自分には理解できていないということを、知っておくことが必要。理解したつもりで事に当たると、誤解だけではなく、自身の進み方を間違ってしまうかもしれない。
 ネット社会では特に、何かを否定したり批判したりが、責任を負わずしてできる。それが常識=大多数の意見だと、根拠もなく思ってしまえる。その怖さを知っているかどうかが分かれ道。
 謙虚さを持ちたい。事実とか、先人の成果とか、あるいは自然の力とかに対して。
 そして、自分の生活、短い人生で得たことがすべてだなどと思わないでいたい。新しいことに興味を持つとは、「自分は何でもマスターできる」という傲慢さではなく、「知らないことだらけ」だと知る謙虚さの表れであるべきだ(と、自分に言い聞かせてみる)。

 西野氏はこうも言っている。
 常識のアップデートを止めてはならない」
 …「謙虚」とはそういうことだ。



[PR]
# by horonekop | 2018-01-21 19:08 | 日記・その他

元祖プリクラ世代の逆襲

 いつものように、下書きなしのぶっつけで書いてます。 
 「いつもの…」って言ったけど、去年の夏から、「うみねこ通信」更新してなかったんだね…^^)ゞ
 仕事の執筆などが溜まってくると、こういう余力でやってることっていうのは、ついついサボってしまう。
 世の中には、実にこまめにブログを更新している人もいて、つくづく感心する。僕のような気紛れ人間には到底真似できない。
 西野亮廣氏なんか、すごいよね。著書の宣伝などもあるだろうけど、長文のブログをきっちり提供し続けているのは天晴れ!である。僕なんか、〆切が設けられている仕事でさえ、ついつい怠けてしまう。自分が書籍の監修や編集をやったときには、〆切を守らない書き手をこき下ろしてたのにね(笑)。勝手なもんだ。

 まぁ、猫だから気紛れなのだよ(って、それで片付けていいのかな?いいことにしよう)。
 「気紛れ」と言えば、昔「気紛れ映像論」というネット連載をやってたことがある。今僕が大学で展開している「メディア序論」の元ネタというか、きっかけになったものだ。元ネタと言っても、冒頭の「2003年、阪神タイガース18年ぶりの優勝」シーンに、写真文化を考える印象的な場面を見つけた…というエピソードの部分で、そのことはまた別の機会に触れたい(大学で僕の講義を受講した学生にはわかることだけど)。

 で、件の連載がきっかけでコニカミノルタの研究員の方と知り合い、共同研究をすることになった。
 コニカミノルタはご存じの通り、コニカとミノルタという共に老舗メーカーでありながら、オートフォーカス機構を実現したチャレンジ精神に溢れる組織が合併した会社。質実剛健なメカのミノルタと、コンパクトカメラなど(プロやハイアマチュアではない)市井の人々の映像機器を追求してきたコニカ(小西六)とが1つになり、「イメージング文化研究所」という組織を作った。
 機械技術の研究所は、どこのメーカーでも持っている。マーケティングの研究もやっている。が、コニカミノルタのイメージング文化研究所はちょっと趣が違って、「イメージング文化」と付いているように、コンシューマ、エンドユーザーの写真に対する関わり方、写真の民間利用などをテーマとして、その成果を製品開発やサービスに活かす(彼らの言葉で言えばベネフィット)ことを目的のひとつとしていた。
 つまり、一般社会の写真文化に対する研究だ。報道やスポーツ、広告などのプロを対象に、彼らを主なターゲットとしての研究は、メーカーなら当然やっている。しかし、デジタルカメラの時代になり、キヤノンとニコンの二大メーカーが世界的に独占状態となる中、後を追う形となった老舗合体メーカーとしては、これまで「プロ向け技術のお下がり」とされてきたエンドユーザー向け分野をターゲットに選んだのだろう。

 そこに、僕のやっていた「ケータイのカメラとアート写真」とか「アルバムに対する意識」といった研究テーマが、Web連載を介して接点を持ったわけだ。
 最初はインタビューの申し出だったが、その後数回、研究所に出向いて講義というか簡単なレクチャーを行うことになった。が、残念なことにコニカミノルタは、その後カメラ事業部をソニーに譲り、デジタルカメラの製造から手を引いてしまった。
※ ちなみに、このときのレクチャーの一部が、過去の講義である映像論と情報論に受け継がれている。

 イメージング文化研究所の研究員は2人の若くて美しい女性で、彼女たちはマイクを握って街へ飛び出し、駅や商店街やゲーセンなどあらゆる場所に出現して、エンドユーザーにインタビューを試み、その結果を報告するという実践的な仕事を果たしていた。
 写真だけではなく、最新技術もファッションも、実際に消費し使うのは女性。研究のターゲットも、必然的に女子学生やOLが多くなる。むさ苦しいおっさんがいインタビューするより、遙かに有効。よい人選だったと思う。
 そんな彼女たちが、カメラと写真の扱い方に関するアンケートを作った。折しも、キヤノンが10万円を下回るデジタル一眼レフ・EOS Kiss Digitalを発売し、カメラ付きケータイが当たり前のツールとして定着した時代。
 ところが(一部の大学などではやっていた人がいたかもしれないが)、ごく普通の人たちが生活の中に急速に浸透してきたカメラや写真とどのように付き合っているのかを、まともに研究する試みはほぼなかった。だから、コニカミノルタのこの試みは実に画期的かつ社会学的にも重要なものだと思った。

 が、残念なことにその研究成果を製品やサービスに結実させることなく、先述したように会社本体がカメラ事業から手を引いてしまった。
 で、僕はそのアンケートを受け継いで、大学の講義で引き続き実施することにした(設問の一部を参考にしつつ、内容を大衆に映像文化を中心としたものに変更)。
 当時担当していた「写真情報論II」という授業で、「一般の人たちがカメラや写真とどのように付き合っているか?」を学生の協力を得て調査したのだ。
 学生に対するアンケートではなく、学生に質問用紙を配布し、自分の家族や友人、近所の大人など「写真やアートに直接関わっていない人」から回答を得る、という形である。
 当時は講義の受講者が百名近くいたので、毎年アンケート用紙を500~1000枚くらい印刷し、数百件の回答を得た。集計用のプログラムを作って、スタッフ(副手)に手伝ってもらいながら集計。グラフ化して講義で紹介するという試みだった。

 以下の画像は、アンケート分析結果の表とグラフ。データは2006年の秋に実施したときのもの。

e0359459_14093562.jpg
e0359459_14094019.jpg
 アンケートでは「所有しているデジカメの画素数」なども尋ねていたが、年々高画素化していく状況では、これは間が開くとあまり意味がない。当時の講義でも、もっぱら取り上げたのは年代と性別による傾向。これは、時代とともに対象の世代が推移することを考慮すれば、普遍性を導き出せる可能性がある。

 数年続けると、興味深い傾向が見えてきた。
 こういう調査は、10年くらい続けてひと世代が順送りでスライドするところまで続けなければ意味がない。そう思って7年続けた。あと3年くらいで傾向としてまとめ、考察を形にして発表できると思っていた矢先、とんでもないことが起こった。
 突然、講義を一切取り上げられたのだ。それまで1、2年生の実習と他の学科も対象とした講義を持っていたのに、僕の授業は少人数のコース授業を半期のみ担当することになったのだ。干されたわけだ。裏に、一部の偉い人の意図やら、ずるい人たちの陰謀やらがあったのだと後に知ったが、それはまあいい。
 お断りしておくが、僕が教師にあるまじき行為をして、罰として授業を干されたとか、そういうことでは決してない(むしろ、教師にあるまじきことをした奴らが、僕を排除にかかったのだ)。本当に、ひどい目に遭った。
 幸いにして信用できる仲間がフォローしてくれて、それが今のポジション(って、元通りってことね)。
 しかし、7年で途切れた研究は取り戻せない。今更あと3年追加したところで、意味を成さない。アナログからデジタルへと大きく変わりつつあったあの時代に、10年続けて人々の意識の変化を見ることが重要だったのだ。
 とは言え、過去のアンケートの結果から、当時の様子は把握できる。文句を垂れていても仕方がないので、埋もれてしまった過去の成果を引っ張り出し、それと「すっかりデジタル全盛」となった現在の状況とを重ね、あるいは比較して、写真文化の変化を引き続き考えることにした。
※ 干されて少人数の授業を短期間担当していた時期も、あながち悪いものではなかった。学生とのやりとりが密になり、Webで写真のスライドショーを作るという、これまで興味はあったが実践できなかった授業を展開できた。このときの学生とはいまだに親交があり、社会人となった今でも写真を見せに来てくれる人や、当時の講義内容をいまだに覚えていてくれる人がいる。立派で有名なアーティストを育てるのもいいのだろうけれど、何でもないごく普通の人が、ずっと写真やアートに関わってくれていることの方が、僕としては素敵である。

 アンケートの結果で僕が特に注目したのは、「撮影した携帯やデジカメの画像のうち、失敗したコマをどうしているか?」だった。
 別の機会(次の掲載)にデータを示すが、「失敗したらあっさり削除」と答えた人に10代、20代が多いのはわかるとして、当時の30,40代の女性も意外と多かった。
 20代も含めれば、この世代はプリント倶楽部(プリクラ)が登場したときに「女の子または女子生徒」だった、いわゆる「元祖プリクラ世代」。よく言われる「ミレニアル世代」と、それ以前数年間との境界世代(40代は、「写ルンです世代」と言えるだろう)なのである。
 ひと世代上の50代と比べて20ポイントの差は大きい。ここに着目したのだ。

 話は変わるが、話題の本「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」の続編も好調のようだ。版元によれば、読者の35%は「40~50代の女性」だという。
 かつては「これからは電子書籍だ」と言われながら、相変わらず紙の本が売れていて、デジタル依存している若い世代は、通信機器の使用料=スマホ代に追われ、書籍どころかファッションや化粧品まで買い控えする現状。紙の本を支えているのはミドル・エイジの女性たちなのだ。

 このニュースを新聞で読み、僕は10年ほど前のアンケートを思い浮かべた。今の40~50代って、2006年当時は30~40代だった!この世代、何かある。
 インターネットブームの時も、通販社会になったときも、僕は(マーケティング云々とは異なる脈絡から)「女が文化を変える」と言い続けてきた。
 写真もまた然り、と思ったのが2000年代に入った直後のこと。ケータイで、思い立ったら即座に写真を撮るのも、カフェでおしゃれなパフェなんかの写真をネットにアップするのも、ぜーんぶ女性の仕業。「盛り」も「インスタ映え」も女性初である。
 先ほど、ミレニアル世代と言ったが、それよりも少し幅を狭め、さらに1980年より少し前に生まれた世代も含めた限定的な世代は、日本では「元祖プリクラ世代と呼んだ方が適切かと思う。
 そんな女性たちが、我々男の抱いていた「写真とは」「本とは」という硬直した意識を大きく変えてきたのだ。

 過去のアンケートから今後の調査まで含め、そういうお話を、これから気紛れに綴っていきたい。アンケートに携わった学生、スタッフ、回答してくれた人々、そして何よりも「当時の意識を明確に表したデータ」に感謝を込めて。
 なお、掲載は不定期で、このブログ「うみねこ通信」では他のテーマの雑文も時々入り込むため、このテーマはカテゴリを「映像文化論」という堅苦しい文言にまとめることにする。絞り込みや検索で見つけやすくするためであって、堅苦しい説法を展開するつもりは毛頭ない(人猫が気紛れに書くことだから)。

 では、続き(いつになるかわからんけど)に請うご期待!ってことで。


[PR]
# by horonekop | 2018-01-21 16:02 | 映像文化論
 近所のスーパーに、カホコさんがいるという。親に甘やかされて育ち、できないことやしたくないことを避けて、何かというとすぐに仕事を休んだり早退したりする、過保護なアルバイトの女子学生だそうだ。
 店が混んで忙しくなってくると「体調が悪いので、帰っていいですか?」と言い出す。上司が「もう少し頑張って」と言っても、休憩で食堂に行ったまま帰ってこない。
 ベテランのパート主婦たちは、売場主任に「あの子、もう帰らせてやって」と訴える。どうせ働かないんだから、いても邪魔なだけ…というわけだ。「早く辞めさせて、他のバイトを入れて」という声も出てくる。完璧な戦力外。

 そんな話を聞くと「だめな奴だなぁ」「近頃の若い者は…」なんて思ってしまうのだが、待てよと、ふと思った。
 もし日本中の若者たちがみんな、カホコさんやカホコ(カホ夫?)くんになったとしたら、と考えたのだ。
 先に書いた「好き嫌いこそが原動力」説の続き、というかそこから発展した「思いつき」である。
 なんでもかんでも「頑張れ!」「努力が足りない」というのは、教える側の「逃げ」なんじゃないかと思うのだ。
 やる気のない学生に「努力が足りない、根性がない」というのは簡単。彼らをしてやる気にさせられなかった反省が消し飛んでしまう。「あいつが悪い、俺は責任ない、以下省略…」の思考停止。
 自分の教えている高度な事柄がわかる者だけ着いてこいというのは、私は君たち愚かな学生より、こんなに賢いんですよ、こんなに勉強したんですよという傲慢にしか見えない(俺がアホなだけかもしれんが^^)ゞ)。
 もちろん僕も、そんなに立派な人格者ではないので(というか、むしろ適当で怠け者だけど)、理想的な授業ができているわけじゃない。というか、毎度納得いかなくて不満ばかり。

 さて、先のこの欄で、僕は大学でのお勉強について「嫌なことはしなくていい。楽しければ、するなといっても勝手に学ぶ」と書いた(小中の基礎教育にまで、無条件でこの考えを当てはめるつもりはない。それはまた別の議論とする)。
 「そんなことをしたら、国中誰も我慢をしなくなり、努力を避けて安易な道を選び、怠け者だらけになる。そんな国になったら、日本は科学も経済も政治も停滞し、滅んでしまう」…そんな反論は容易に予測できる。
 でもね、ひねくれ者の僕としては、科学や経済や政治が、そんなに日々発展しなければいけないの?と、疑問を呈してみたくなったのだ。だって、頑張ろうとして心を病み、生きることまで放棄する人が後を絶たない今のこの国で、それでも「頑張るのは尊い」という価値観が根を張っているのが不思議でならないのだよ。

 かつて民主党政権のとき、例の「仕分け」でスーパーコンピュータ開発について、蓮舫さんが「2位じゃダメなんですか?」と名言(迷言?)を残した。あのとき、僕は「このアホ、何を言っとるんじゃ?」と呆れたけれど、今となっては「ふむ、それも悪くないかも」と思っている。
 だって、日本の発展を願って、志ある若者たちが西洋の科学や政治経済のシステムに触れ、欧米の大国に追いつけ追い越せで必死になって学び働いた結果が、72年前の焼け野原だったじゃないか。
 「その後の復興も、日本人が一生懸命に努力したからだ」という反論については、一生懸命に戦争してなかったら、復興の必要もなかったのだよと再反論しておく。

 もしも、冒頭で触れたように、若者たちがみんな甘ったれで根性なしのカホコさんになったとしたら、「いざ戦争だ!」ってときに「銃が重いから歩くのヤダ」とか「お腹が空いたから訓練したくない」とか駄々をこね、仮病を使って訓練をサボり、軍隊を逃げ出す連中も出てきたりして、ちっとも戦争にならないだろうなと思った。
 「そうなったら、日本がよその国に侵略され、植民地になる」と危惧する人もいるだろう。だから、せめて外交の努力くらいはすべきかと、一応思う(一応ね)。冷静に事態を分析し、話し合いで危機を回避する方が、少なくとも殺人の研究とそのための訓練をするよりはよほど楽なはず(戦闘機飛ばしてミサイルを撃つ金で、難民に食料をわけ、砂漠に水道を引けるんだよ)。
 それにですね、もし「根性なし」が世界的なブームになり、世界中がダメな国民だらけになったら、「よその国を攻めるなんてめんどくせー」とか「自爆テロなんてヤダー」って人ばかりになって、結局テロも戦争も起きないんじゃないかと思うよ。

 国のためでも民族のためでも、地域のためでも会社のためでも、何のためでもいいんだけど、わけわかんないままに頑張っちゃうからいけないのだ。
 銃が重いからヤダー、撃たれたら痛いからヤダー。そんな根性なしばかりになれば、少なくとも無駄に命を散らす若者は減少すると思う。
 何バカなことを…と思うかもしれないけど、一度考えてみても悪くない。
 「そんなことになったら、一部の悪い連中の思うままになって地球が滅びる」という危惧は、当然生じるだろう。もし本当にそうなれば、地球はその程度の値打ちしかない星だったのだと諦めるのも選択肢のひとつかもしれない。
 こんな言葉があるよ。
 「本当の平和とは、それを守るための努力をしなくてもいい状態のことである」

 かつて湾岸戦争のとき、日本では海外渡航が自粛されることになった。その際、「海外レジャーに行けない」と不平を言う若者たちをテレビで見て「戦争しているときに遊べないからと文句を言うなんて不謹慎だ」とじじいの政治家が言った。
 それに対して上岡龍太郎氏は「人が遊ぼうというときに、戦争する方が不謹慎だ」と反論した。この視点がとても大事。
 みんなが同じ方向を向くとき、ロクなことが起こらない。僕たちは、「一億火の玉」のかけ声でみんな死ぬ気の戦争をして、本当に国土が火の玉になったら「一億総懺悔」して平和は尊いと言い出し、一億総モーレツに働いて、一億総テレビ人間、一億総スマホ人間…そのうち一億総忖度人間、一億総ヘイトスポーチ野郎になるかもしれない。
 あれから70年以上、ひたすら頑張ってきたのだ。そろそろ学習しましょうよ。


[PR]
# by horonekop | 2017-08-12 16:46

楽しくて何が悪い?!

 随分昔、まだデジタルカメラなどなかった時代のこと。
 明け方近くまで呑んだ帰り道、「あー、写真が撮れない。スランプだぁ」と呟いたら、偉い先生に叱られた。「そんなのは怠ける言い訳だ。悩んで悩み抜いて、泥にまみれなきゃ」と。

 僕は根性論が大の苦手(というか嫌い)。楽しいことは楽しくやって、面白くなければ辞めればいいと思っている。
 無論、その先生を否定するつもりはない。実際に努力してきたことを知っているし、お互いに酔っ払ってたし…。
 努力とか根性とか、否定はしないが堂々と口に出して、ましてや他者に求めるなどということは、恐れ多くてできない。…というのは表向きで、星一徹と飛雄馬のような、根性で結ばれた親子関係がひたすらに気持ち悪いのだ。「お前ら、親子で何を頑張ってんねん?」って(笑)(自分の大リーグコンプレックスを息子に押しつけるなんて、ひどい親父だよ一徹さんったら)。

 人は、楽しければ勝手に頑張る。楽しくも面白くもないのに、汗水流してひたすら頑張るなんてどうかしている。
 こう書くと、反論は予想できる。ましてや、教師たる者が怠けを奨励するなんて…と、読解力の欠如した、または他者を批判したくてたまらない暇な人たちは大騒ぎするだろう。
 でもね、「頑張れ」とか「根性で乗り切れ」と言う人も、実は無償で頑張ってるわけじゃない。泥にまみれ、必死で努力した先に、例えば傑作をものにするとか技術を極めるとか、場合によっては名誉とか金銭とか、ずっと先には「なんか楽しいこと=お得」を見定めているのだ。
 射程距離が近いか遠いかの違いだけ。遠くの的を狙って地道な努力をすることは尊くて、近くの的を目指すのは刹那的、享楽的でダメって論理? 明日、隣の国から核ミサイルが飛んでくるかもしれないのに??(こっちの射程はかなり近いぞ)

 もちろん、将来を夢見て地道な努力を続けることを否定はしない。むしろかっこいい。
 でも、その努力が「確実に無駄になる」「おそらく何の成果も生まない」と思えるときに、それでも頑張り続けるのは愚かの極みだ。
 今8月、高校野球のまっただ中。球児たちは必死で頑張っている。将来のプロ選手を夢見て。
 でも、おそらくほとんどの球児は、将来「元野球少年」で終わるだろう。それでも「若いときに重ねた努力が、大人になってからの生き方を決める」とか、訳知り顔で大人たちは言う。「努力は裏切らない」「見る人は必ず見ている」なんて。
 ほんとかよぉ? 誰にも見てもらえず、若い日の努力を実らせることもできず、無名のまま消えていく人が世の中を支えているのだと、なぜ教えない? 君が歯を食いしばって努力しても、何の役にも立たずに終わることがほとんどだと、それでも頑張らなきゃしゃーないやんか、将来「かつて世界で活躍するアスリートを夢見たただの人」になって、もし子供ができたら「それでも生かされちまってるんだから仕方ないやろ」と、本気で子供に伝えるような大人になれと、なぜ教えない?

 頑張ればいいことがあるという、根拠のない無責任な嘘、「俺は頑張ってきたぞ」というただの自慢、聞き飽きた。
 芸術家の卵に「自分をさらけ出せ」なんて言うなら、まず自分がいかにさらけ出してこなかったかを嘆け。「恥をかけ」なんて軽く言うな。そう言っている自分はかっこいいと酔いしれておきながら、他者に恥を求めるなんてただの意地悪だ。倒錯してる。
 本当に大事なことは、死んでも口にしないだろう。それでいいのだとなぜ認めない。人に話せばすっきりする程度の苦悩は、街角の占い師にでも打ち明けときなさい。
 嫌なものは避ければいい、嫌いならしなくてもいい。面倒だけどそれでも何か楽しいと思ったら、大人が言わなくても彼らは自発的に努力する。それくらい、信頼してもいいんじゃないか? 子供を信用できないのは、自分が信用できない子供だったことの証。俺もまぁ、信用できる子供じゃなかったが、その反省を込めて信頼したいと思っている。

 僕の母はいい加減な人で、子供の頃「嫌いなものは食べなくていい」と言われ続けた。彼女自身が偏食だったからかもしれない。
 お陰で成長してから、「これではいかん」「おかんにひどい教育を受けた」と思い、進んで嫌いな野菜を食べるようになった。今思い返せば、実に見事な教育だった(最初から計算していたのかどうかは知らないが)。
 人間、好きなこと、楽しいことは必死でやる。嫌なこともするよう指導するのが教育だという声はわかるが、一歩間違うとただの強制、嫌がらせになる。嫌いなものも全部食べるまで帰さないという給食の指導に、職員室まで抗議に乗り込んだ母。それが信頼を生むのだ。
 僕は好きなことには必死の努力をする。小学生のとき、漫画を描きたくてデッサンを必死でやった。大人になってから、寝る時間を削ってプログラミングを学んだ。どちらも先の結果を夢見てではなく、ただ楽しかったから。

 頑張れとか努力せよとか言うな! 放っておいても自分から学びたくなるくらい、楽しいことを教えてやれ! 楽しければ、こちらがやめろと言っても努力するだろう。勝手に伸びていくだろう。
 先生は「ただ好きなだけでやっていられるのは今だけ。本気で取り組めば死にものぐるいの努力が必要」だと、訳知り顔に説くだろう。でも、そう言っている先生自身、好きだからやってきたのだ。物理の先生がサッカーの先生でないのは、国語の先生が数学を教えないのは、好きでなかったからでしょ?
 好き嫌いこそが人を決める。立派な人は、好き嫌いで物事を決めるなと言うだろう。でもそれは「自分がいかに知的で論理的か」をアピールしているに過ぎない。そんな知的な僕を(私を)見習って、という安っぽい下心、または無自覚の自慢。あんたが自慢しなくても、ほんとにかっこよければ勝手に見習ってくれるよ、心配すんなって(俺は見習わないけどな)。

 僕の「好き嫌いが原動力」説は結構批判される。青筋を立て、眉根をつり上げて猛反論する先生もいた。「僕は好き嫌いなんかで芸術を判断しない!」と。
 自分が冷静で知的なことアピールしたいのだろうけど、青筋立ててるところがとても感情的で、非論理的に見えるから可笑しい。人間なんて、矛盾に満ちた生き物だ。僕の言うことだって同じ。先生だからってむやみに信用するな? あ、内部矛盾を引き起こしたな、これは。脳内が無限ループに陥るかもしれない(笑)

 ってことで、ひたすら享楽的な戯言でした。
 ちなみに、お酒は入ってません(昼間なので)。
e0359459_18062493.jpg

↑ 彼は寝ることと遊ぶことと食べることには努力を惜しみません(飼い主に似てます)。


[PR]
# by horonekop | 2017-08-09 18:12
 近年、学生の撮った写真に強い既視感を抱くことが多くなった。
 「記憶障害?」「認知症??」…いやいやそうじゃなくて、似たような被写体、共通した構図、どこかで見たような印象…という写真が目立つのだ。
 それも、圧倒的に女子の写真に多い。

 で、どれも「おっ、いいな!」と思うわけだ。
 ひところ(といっても10年以上前だが)流行した、いわゆる「ガーリーな」写真とも違う。
 カメラを提げて街を歩いていて、ふと目に止まった何でもない「モノ」(例えば自販機脇のゴミ箱とか、玄関先に置かれた鉢植えとか、歩道に停めた自転車とか)を、見たままの位置、つまりぐんと近付くでもなく、回り込んで角度を工夫するでもなく、しゃがんで視線を低くするでもなく、とにかく歩いていて見つけたときの位置から、素直に(言い方を変えれば「そのまんまに」)撮影した映像である。

 なんでこういう写真を「いいな!」と思うかというと、実はずーーっと昔(デジカメが使われるより以前、つまりフィルムの時代)から、僕が試みていたスタイルにかなり近いからである。
 昔は、被写体を見つけたら(ということは、何かに向けた眼差しに、自身の内なる琴線が触れたら、のような)、まずは正面から、さらにぐいっと近付いて、あるいは周囲を見渡して視線を引いて、などなど、街角スナップの王道というか、まあいわゆるセオリーみたいな撮り方、構え方があって、その上でピントや露出、角度などを工夫しつつ、自身の映像表現につなげていったりする、そういう態度が当たり前だった。
 なのでひねくれ者の僕は、そういう「何かを表現してやろう」という、僕が見つけるより先に厳としてそこに存在していたであろう「風景様」に対して失礼な態度を捨て、「歩いていて偶然出会った風景さんなのだから、風景の採取者たる僕もそのままの(出会ったときの)位置、そのままのあり方で写してみよう」と思って試みたスタイルだ。

 Webで公開中の「なんでもない日々」は、まさにそのスタンス。「いかにも写真表現でございます」という被写体との「肩肘張った接し方」を捨てるという、ひとつの試みである(とは言っても、一度染みついた「写真的な態度」ってのは、なかなか振り払えないのだけれど)。
 で、そのやり方に近い印象のストリートスナップに、最近若い女子の作品でお目にかかるのだ。
 えっ?俺が若返った?? いやいやそうじゃなくて、若い女子がオヤジになったのでもなくて…ですね、なぜなのか考えてみたわけ。

 まず、こういった撮り方を「何でもない視線」と呼ぶことにする(とりあえず)。
 若い女子たちがそのような撮り方をするのは、おそらく「スマホの影響」なのだと推測する。写真を学び、日々撮影にいそしんでいる写真学科の学生でも、デジタル一眼レフのファインダーより、スマホの液晶を覗く時間の方が多いだろう。
 スマホの液晶画面は、対象にレンズを向けると自分(=撮影者)の真正面を向く。「それは一眼レフでも同じじゃないか」と思うでしょ? ところが、ですね、低い位置にある被写体を撮影したいとき、一眼レフならカメラのボディを両手でつかんで低く構え、ノーファインダーで撮ることがごく自然に(写真撮影の経験があれば)できてしまう。背面の液晶ファインダーを、上下左右に90度回転できる機種もある。
 なのだがスマホは、さすがにそこまで親切な機能は付いていないし、そもそもボディが薄いから、両手で側面をつかんで低い位置に保つのは難しい、ってか、やってみればわかるが、シャッターを押せない。そう、「カメラ」は機械式のボタンがボディ上面(いわゆる軍艦部)の端にあるが、スマホはレンズ背面のボタンをタップするわけだから…ボタンが見えない。高い位置から構えて押すという操作を、前提としていないのだ。ローアングル撮影は人間工学的に無理なのである。

 スマホのカメラというのは、「見た位置のまま撮る」のが極めて普通、自然なスタイルになっているのだから仕方がない。せいぜい、縦長か横長かを選ぶくらいだ。
 そんなスマホでの撮影に馴染んでしまえば、「おっ!」と感じで撮影するときに、それがカメラかスマホかには関係なく、見たままの位置でシャッターボタンを押すだろう。
 写真を学んでいる学生なら、ひょっとしたらいろいろな角度から撮影しているかもしれない。が、たくさん撮った中から1コマを選ぶとき、結局「見慣れた角度」である、立ち止まって上から見下ろしたときの絵を選んでしまうのだと思う。だって、それが自然なんだから。

 カメラを持ち歩いている人が珍しかった時代には、見下ろす角度の絵は撮影ではなく、ただ肉眼で「見た」場合の構図だった。だから、せっかく写真機という道具で技巧を凝らして撮影した画像は、そういった「日常的なありよう」ではなく「普通だったらこの角度からは見ないよな」という、非日常的な視点が評価されたのだ。
 しかし、今は見下ろす視線が「見慣れた」だけではなく、「撮り慣れた視線」としても定着している。ならなおさら、撮り慣れていない非日常的な視線の方が斬新ではないか、と思う人もいるだろう。そうではないのだ。
 意表を突くような想定外の視点より、見る者と同じ視点で、見る者と同じような状況を、他者の目から改めて提示されることで「共感」を呼ぶのである。
 「私も同じような花を見つけて、いいなと思ったよ♪」という共感だ。

 特に女子の持つ共感力は、同一性、類似性に根ざす。ただ、絵面(えづら)が似ているだけなら、実は男子も同じようなところがあって、例えば鉄道写真や航空写真は、その手の専門雑誌に掲載されている写真と似たような絵面が評価され、マニアの男子たちはこぞってそのような写真を撮ろうとする。
 これは鉄ちゃん、飛行機ちゃんだけでに限らず、一般的なカメラマニア、写真マニアのおとっつぁんたちも同じで、カメラ雑誌に載っているのと似たような風景を撮影し、大きくプリントして悦に入ったりしている。例えば、水平線に沈む夕陽とか、城跡の手前に満開の桜とか、スローシャッターで撮った滝とか…その他いろいろ。
 女子の撮る写真が男子のそれと異なるのは、共感を求める最大公約数的な撮り方でありながら、なおかつそこに「個性」を刻み込もうとする点だ。それも、男子の狙う技巧的な個性(例えば超広角レンズとか、スローシャッターで流し撮りとか)ではない、「特に意図してないけど、結果として出ちゃった私風」みたいな個性。

 以下、性差別だと言われたら困るんだけど、決してそういう意図ではなく、あくまで社会学的な「性差」の観点から述べる。

 男は「俺たち仲間だよな」と言われてそれに同意すると、立場は違っても目指す理想は同じ…といった目的共有をしたものだと受け取る。が、女は「みんな一緒だよね」と言われて「そうよね」と同意すると、内面では「でも、私はあなたたちとは違うのよ」と、密かに思ったりしてしまう(らしい)。
 これは、原始の時代にヒトが群(むれ=集団)を作って暮らし始めたとき、集団に対する帰属の捉え方が、そもそもオスとメスとで異なっていたことに起因する(ようだ)。オスは集団でみんなの食べる餌を狩るため、集団の機能的な働きのために自我を抑制する必要があった。それに対してメスは、集団内に形成された自身と子供という小集団(=家族)を維持するため、同一集団内においても他の小集団との競争を意識せざるを得なかった。
 どうもこの頃の「太古から受け継いだ集団意識の差」が、悠久の時を経てなお、我々のDNAに刻み込まれているようなのだ。
 それは、実にいろいろな局面で現れるのだが、21世紀のスマホ写真においてさえ、見事に現れてちゃっているのではないか? …と、いうことである。

 だって、僕が件の撮影スタイルにたどり着いたとき、それはそれは随分と考えたのだ。それまでの「写真」という手段のあり方、それを踏まえて構築されてきたであろう「よい撮り方とダメな撮り方」という呪縛。見たままではいけない。撮影者、表現者としての工夫をしなければ…という暗黙の脅迫(または自己規定)。個性とは他者と異なることなのか? そして、日常を日常のスタンスで撮って何が悪い?という開き直り。
 …そんなこんな悩んだ日々が、女子にとっては「だって綺麗な花を見つけたんだもーん」ってノリで片付いてしまったわけだ。
 偉ーーい先生に、上から見下ろすんじゃなく、被写体と同じ目線になって…と批判され、足許に咲いている花を、なぜ足許に咲いているままに撮ってはいけないのかと考え続けた苦悩の日々(というほど大げさなものではないが)は何だったんだ?と思うよ、私ゃ。

 女子たちは、足許の花と、それを見つけた自身を「なんてことない、ごく自然な様子」として具現化する。それでいて、影や空気感に「自分らしさ」を漂わせていたりする。
 これだよ、これ! 大阪・中崎町界隈で撮り始めて10年を越えるけれど、参ったなー、その頃小学生だった女子たちが、ごく自然に身に着けてしまった対象との関わり方。実は今でも、考えては撮り、撮っては考えているんだゼ(ほんとだよ、嘘っぽいけど)。
 スマホの登場が「ものの見方」を変えた。生活がテクノロジーを生む時代は終わり、テクノロジーが人の意識を変える時代になっているのだ。

e0359459_16312228.jpg
大学の喫煙所で(もちろん立ったままの位置から)

[PR]
# by horonekop | 2017-06-04 17:00