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hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop

地味だけど大切なお仕事(編集とか校閲とか)

 ネット記事のおかしな日本語について触れたので、その関連でもう一題。
 と、校閲の話を書こうと思ったのだが、その前に…。
 ネット記事の日本語も気になるのだけれど、その中身の「薄さ」というか「適当さ」がとても気になるこの頃なのだった。
 先日見かけた、「売れっ子芸人の収入」の話題では、「曰く」をわざわざ「曰はく」と、なぜか旧仮名遣いで表記していて、これはネット用語で言うところの「ワロタ」である。件の文を書いた人は、「言うには」という意味の「いわく」は古めかしいニュアンスだから、「わ→は」とする方がかっこいいとでも思ったのだろうか? ならば「曰く」にだけこだわらず、いっそのこと全文文語調で書けよ、と言いたくなる(まじでかっこいいけど、読むのに疲れそう)。

 さらに中身。「あの芸人の最高月収がん百万円だった…」という内容と、それに対する「すげぇ」とか「俺なんか20万」といったツイートの列挙だけ。最後に申し訳程度に「とりあえず、彼らが大金をもらっていることはわかった」(原文は日本語が変だったので、要約・短縮・編集)と結んであるが、これって何の締めくくりにもなっていない。だって、本文を読めばわかることしか書かれていないんだもん。
 巨額の収入を得た人気芸人の話を取り上げたら、そこから格差社会とか非正規雇用の話に持って行って社会ネタにするとか、彼らも今は売れっ子だけど、長くて辛い下積みがあって…というサクセスストーリーにするとか、料理の仕方はいろいろあるじゃないか(かなり類型的な例で申し訳ないけど)。そういう「書き手の声」がなーんにも聞こえてこない文章って、読んでいてつまらない。ただの作文である。
 そもそもこの記事の元データである「誰の収入がいくら」という情報も、彼らライターが足で取材して得たものではないだろう。おそらくはテレビ番組、あるいはそれを見て誰かが書き込んだネットの呟きなどを拾い集めただけだと思う。
 確かに、時給2000円程度で記事を粗製濫造するように追い立てられている学生バイトにすれば、芸能事務所にアポを取ってボイスレコーダーとメモを手に…なんてかったるいことをやってたら採算割れを起こすだろう。
 書かせる方も、先に書いたように「とにかくユーザーを引きつけて広告をクリックさせればいっちょあがり!」なわけだから、時間と金をかけて取材させ、そこから問題提起するような文章を書かせて…などとは露ほども思っていないのだろう。

 でもねー、書く側にも「意地」というか「矜恃」みたいなのがあるわけですよ。
 自分の話で恐縮だけど、雑誌の書評コーナーを担当していて、1ページの数分の一程度の面積に2百文字ほどの文を書くのに、いかにこの本を「読んでみたいな」と思ってもらうか考え、2日間ほど推敲を重ねたりしたよ。それで1本1万円くらいだから大幅な採算割れだけど、文を書く以上、気に入った本を「ぜひ読んでみてね」という気持ちを伝えたいじゃないか。
 映画のコラムを連載していたときには、本編を観るのに2時間、それを何度か見て、止めて戻してスロー再生して、画面をキャプチャして拡大し、小物の製品名や型番まで調べて、場合によっては後ろの通行人の服装や持っている携帯電話まで調べて、ページ半分の記事に3日間以上かけたりもした。コストパフォーマンス悪すぎ(笑) でも、楽しい仕事だった。
 文章って工業製品じゃないから、原価がいくらだとか考えないんだよね。だからって、そういう採算割れの仕事ばかりじゃ身が持たないけど(笑)。

 ということで、ここからは物書きのお仕事の話。というか、間違い探しのお話。

 ネットの日本語についてあれこれ言ったけれど、実は僕もかなりの慌て者で、誤字・誤変換が多い…なんてことは、読者の方はよーくご存じのはず^^)ゞ (特に編集者の間では、「長谷川の原稿は右と左がよく逆になる」という伝説があるらしい。実際そうなんです。これは会話でも同じで、インド人に道を訊かれて左に曲がれと言うつもりで手を左側に示しながら「Turn right」と言ったことがある。脳内に鏡像が生成されているのかも…。裏文字を書くのも得意だし)。
 そんなわけで、お仕事の文章では、編集者に大変お世話になっている。
 もちろん自分でも念入りにチェックしているのだが(そのつもりなんだが)、自分の書いた文を自分の目で見直しても、必ず「漏れ」がある。「もうミスはない!」と思って念のために再チェックすると、またぞろ見つかってしまったりする。
 だから、他者の目によるチェックが重要だ。編集や校閲のお仕事というのは、実に大切なのである。

 校閲といえば、日本テレビのドラマ「地味にスゴい!校閲ガール 河野悦子」が終わった。なかなか面白かった。
 出版社の校閲部にスポットを当てたところが、実に地味にスゴい(笑)
 ドラマだから、そこはもちろん誇張や省略もある。そもそも、いくら地味な仕事だからといって、社屋の地下の一室に閉じ込められてたりはしない。もっと編集に近く、日当たりの良いところで働いている(フジテレビ系でヒットした「ショムニ」じゃないんだから)。
 ドラマの舞台は小説なども手がける大手出版社の校閲部という設定で、エッセイから実用書、ミステリー小説のトリックに至るまで校閲部員が事細かにチェックしていたが、そこまでがっつり取り扱う出版社はそう多くはないだろう。
 中小規模の専門書系の出版社では、校閲専門の部署がないところも多い。そういうところでは、編集者が互いに原稿を交換し合うなど、目を変えてチェックしたりする(編集者が専門家だったりすることも多い)。
 そうやって見つけた訂正箇所には、赤ペンでマークを付けて修正する。なので、校閲、校正作業のことを「赤(または朱)を入れる」という。
 ちなみに、校正とは、誤字、脱字、表記の間違いなどをチェックして正しく直す作業。校閲はもっと範囲が広く、媒体として内容が適切かどうかに立ち入って判断する。だから、校正はある程度までなら機械的に処理できる(一次校正をワープロの置換機能ですませる編集者もいる)。人工知能を用いれば、さらにきめ細かな校正が可能だろう。しかし、校閲は難しい。ちょっとしたニュアンスの違いで読者に誤解を与えないか…といったところまで掘り下げる必要があるからだ。
 実際、大手や新聞社系の出版社では、校閲の人たちの手腕が凄い。専門分野の専門家もいれば、わからないところは実地調査することもある。一口に物書きといっても、僕以上に適当な文を書く人はいるわけで、かつて丸谷才一さんが雑誌に書いていたのだけれど、文芸誌のある編集者が「大家」と呼ばれる有名作家の原稿にあまりに基本的な日本語の間違いが多かったので、それらを逐一メモしたそうだ。読むと「マジかよ?!」と言いたくなるような間違いが多く、そのことに本人が気付いていない様子だった(先の記事の「ネット上のおかしな日本語」も、これに倣ったってわけ)。

 時間との闘いも壮絶だ。書籍や月刊誌なら多少の余裕はあるけれど、週刊誌やまして新聞となると〆切が早いため、それはもうものすごい量の文章と格闘することになる。紙のメディアはいったん世間に出せば修正が容易ではないため(というか、ほぼ不可能)、早さと正確さのせめぎ合いとなる(ある女性編集者が「嫁入り前の女のする仕事じゃないわよ。〆切終わって帰る頃には化粧ボロボロで、明け方、今から出社する人たちとすれ違うんだから」と、「こぼしていたのを思い出す)。
 それに比べれば、後からでも訂正の効くネットの記事では、「正確さよりも早さ」という価値観が支配的になるため、チェック体制も手薄になるのだろうと推測できる。だから余計に、原稿を書く側が神経を使わなければいけないのだが、先述したように書き手がバイトレベルだったりするものだから、誰も真剣に読者に責任を負わない体制が、いとも簡単にできあがってしまう。
 ネット記事の裏側については、あまりバラすとこちらに仕事が回ってこなくなるので、まあ、そこは控えめにしておこう(笑)。とにかく、しっかりやっているところと適当に済ませているところとが、はっきり分かれてしまうみたいだ。
 実際、ネットの情報サイトの編集者自身がそもそもバイト並みで、編集経験のない人もいたりする。ブログをたくさん書いているから経験者…みたいなノリで採用されたりもあるみたい。公器たるメディアに情報を公開することの怖さを、てんでわかっていない人たちがやっちゃあいかんわな。と、僕が言っても説得力ないけど^^)ゞ

 書籍の編集や監修も仰せつかったことのある僕から言えば、元原稿(一次原稿)を書くのは相当に「楽」。もちろん構成や表現を考え、練りに練って書くのだけれど、それでも、他者の書いた文章をチェックし、手直しする作業の方が遙かにに「しんどい」お仕事である。
 ちなみに、他者の原稿で最も面倒なのは(大学などの)偉い先生が書いたもの(笑)。「ここはわかりにくいので、言い回しを変えましょう」と言うと、「なんでわからない? これでいいじゃないか」と譲らなかったりする。変に自信を持っていて謙虚さがない(個人の性格なのか、職業病なのか…)。
 次に厄介なのが、そこそこによい仕事をしていると自負しているプロフェッショナル。お仕事では専門家なのだろうが、自分の意図を他者に伝達する技術に長けていないことが多く、そもそも日本語の文章になっていなかったりする。エッセイならまだいいのだけれど、技術書では想定読者が難なく読める内容にする必要があるため、メールを何度もやりとりして筆者の真意を把握し、元原稿をばっさり切り捨てて完全リライト…なんてこともときにはある(「ときに」は、かなり控えめな表現ざます)。

 これまでに一番手に余ったのは、IT専門の翻訳会社が訳した英文のエッセイ集。基本はソフトで翻訳するのだが、それを日本語として自然な表現に改める段階で、筆者であるアメリカ人の日常的な感覚をわかっていなかったらしく、トンデモ翻訳、意味不明用語が続出した。
 たまらず出版社に「翻訳前の原文をデータで送って!」と頼み、翻訳からすべてやり直した。訳者がうまく訳せない理由はわからないでもない。技術系でありながら日常会話も混じる内容なので、原文には専門用語と日常語とスラングが混交していた。さらには綴り間違いもあったり。苦労したのはわかるが、「おや?」と思ったら調べろよ、と言いたい。
 なかなかに大変な仕事だったが、「ああ、アメリカ人ってこういうときにはこんな言い回しをするんだ」などと、訳しながら勉強にもなった。面白いお仕事でもあった。

 よい音楽を聴いたことのない人に、よい音楽は作れない。感動的な絵を観たことのない人に、人を感動させる絵は描けない。同じように、よい文章、伝わる文章を読んでいない人には、見ず知らずの他者に伝えるための文章は書けないだろう。
 そういう意味で、ネットに溢れている文章はあまり「よいお手本」にはならないように思うのだ。もちろん、文章表現に真摯に取り組んでいる書き手、送り手もいる。が、これはネットの宿命である玉石混淆。SNSで頻繁に目にする情報サイトの文章では、(僕のネットでの読書量が少ないせいかもしれないが)そういった賞賛に値する文章に、残念ながらお目にかかったことがない。これもまた、僕が言ったところで説得力はないのだけれど。

 「ネットの文章なんて、書いてあることが間違ってなければそれでいいじゃん」という人も多いと思う。でもそれは、「ご飯なんてお腹が膨れればいいじゃん」「お酒なんて酔えればそれでおっけー」というのと同じで、「よいものに触れた」経験ができないという、とても残念なことなのだ。
 世の中、必要なものだけでできていると、なんかつまらない、物足りない。「潤い」という余分なものがあるからこそ、「これだけは大切」という「余分でないもの」が見えてくるのだと思っている。
 あ、僕の大学の講義は「余分な無駄話ばかり」だって? それは、あえて否定しませんです、はい。

by horonekop | 2016-12-19 17:54 | 日記・その他