hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop

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 近所のスーパーに、カホコさんがいるという。親に甘やかされて育ち、できないことやしたくないことを避けて、何かというとすぐに仕事を休んだり早退したりする、過保護なアルバイトの女子学生だそうだ。
 店が混んで忙しくなってくると「体調が悪いので、帰っていいですか?」と言い出す。上司が「もう少し頑張って」と言っても、休憩で食堂に行ったまま帰ってこない。
 ベテランのパート主婦たちは、売場主任に「あの子、もう帰らせてやって」と訴える。どうせ働かないんだから、いても邪魔なだけ…というわけだ。「早く辞めさせて、他のバイトを入れて」という声も出てくる。完璧な戦力外。

 そんな話を聞くと「だめな奴だなぁ」「近頃の若い者は…」なんて思ってしまうのだが、待てよと、ふと思った。
 もし日本中の若者たちがみんな、カホコさんやカホコ(カホ夫?)くんになったとしたら、と考えたのだ。
 先に書いた「好き嫌いこそが原動力」説の続き、というかそこから発展した「思いつき」である。
 なんでもかんでも「頑張れ!」「努力が足りない」というのは、教える側の「逃げ」なんじゃないかと思うのだ。
 やる気のない学生に「努力が足りない、根性がない」というのは簡単。彼らをしてやる気にさせられなかった反省が消し飛んでしまう。「あいつが悪い、俺は責任ない、以下省略…」の思考停止。
 自分の教えている高度な事柄がわかる者だけ着いてこいというのは、私は君たち愚かな学生より、こんなに賢いんですよ、こんなに勉強したんですよという傲慢にしか見えない(俺がアホなだけかもしれんが^^)ゞ)。
 もちろん僕も、そんなに立派な人格者ではないので(というか、むしろ適当で怠け者だけど)、理想的な授業ができているわけじゃない。というか、毎度納得いかなくて不満ばかり。

 さて、先のこの欄で、僕は大学でのお勉強について「嫌なことはしなくていい。楽しければ、するなといっても勝手に学ぶ」と書いた(小中の基礎教育にまで、無条件でこの考えを当てはめるつもりはない。それはまた別の議論とする)。
 「そんなことをしたら、国中誰も我慢をしなくなり、努力を避けて安易な道を選び、怠け者だらけになる。そんな国になったら、日本は科学も経済も政治も停滞し、滅んでしまう」…そんな反論は容易に予測できる。
 でもね、ひねくれ者の僕としては、科学や経済や政治が、そんなに日々発展しなければいけないの?と、疑問を呈してみたくなったのだ。だって、頑張ろうとして心を病み、生きることまで放棄する人が後を絶たない今のこの国で、それでも「頑張るのは尊い」という価値観が根を張っているのが不思議でならないのだよ。

 かつて民主党政権のとき、例の「仕分け」でスーパーコンピュータ開発について、蓮舫さんが「2位じゃダメなんですか?」と名言(迷言?)を残した。あのとき、僕は「このアホ、何を言っとるんじゃ?」と呆れたけれど、今となっては「ふむ、それも悪くないかも」と思っている。
 だって、日本の発展を願って、志ある若者たちが西洋の科学や政治経済のシステムに触れ、欧米の大国に追いつけ追い越せで必死になって学び働いた結果が、72年前の焼け野原だったじゃないか。
 「その後の復興も、日本人が一生懸命に努力したからだ」という反論については、一生懸命に戦争してなかったら、復興の必要もなかったのだよと再反論しておく。

 もしも、冒頭で触れたように、若者たちがみんな甘ったれで根性なしのカホコさんになったとしたら、「いざ戦争だ!」ってときに「銃が重いから歩くのヤダ」とか「お腹が空いたから訓練したくない」とか駄々をこね、仮病を使って訓練をサボり、軍隊を逃げ出す連中も出てきたりして、ちっとも戦争にならないだろうなと思った。
 「そうなったら、日本がよその国に侵略され、植民地になる」と危惧する人もいるだろう。だから、せめて外交の努力くらいはすべきかと、一応思う(一応ね)。冷静に事態を分析し、話し合いで危機を回避する方が、少なくとも殺人の研究とそのための訓練をするよりはよほど楽なはず(戦闘機飛ばしてミサイルを撃つ金で、難民に食料をわけ、砂漠に水道を引けるんだよ)。
 それにですね、もし「根性なし」が世界的なブームになり、世界中がダメな国民だらけになったら、「よその国を攻めるなんてめんどくせー」とか「自爆テロなんてヤダー」って人ばかりになって、結局テロも戦争も起きないんじゃないかと思うよ。

 国のためでも民族のためでも、地域のためでも会社のためでも、何のためでもいいんだけど、わけわかんないままに頑張っちゃうからいけないのだ。
 銃が重いからヤダー、撃たれたら痛いからヤダー。そんな根性なしばかりになれば、少なくとも無駄に命を散らす若者は減少すると思う。
 何バカなことを…と思うかもしれないけど、一度考えてみても悪くない。
 「そんなことになったら、一部の悪い連中の思うままになって地球が滅びる」という危惧は、当然生じるだろう。もし本当にそうなれば、地球はその程度の値打ちしかない星だったのだと諦めるのも選択肢のひとつかもしれない。
 こんな言葉があるよ。
 「本当の平和とは、それを守るための努力をしなくてもいい状態のことである」

 かつて湾岸戦争のとき、日本では海外渡航が自粛されることになった。その際、「海外レジャーに行けない」と不平を言う若者たちをテレビで見て「戦争しているときに遊べないからと文句を言うなんて不謹慎だ」とじじいの政治家が言った。
 それに対して上岡龍太郎氏は「人が遊ぼうというときに、戦争する方が不謹慎だ」と反論した。この視点がとても大事。
 みんなが同じ方向を向くとき、ロクなことが起こらない。僕たちは、「一億火の玉」のかけ声でみんな死ぬ気の戦争をして、本当に国土が火の玉になったら「一億総懺悔」して平和は尊いと言い出し、一億総モーレツに働いて、一億総テレビ人間、一億総スマホ人間…そのうち一億総忖度人間、一億総ヘイトスポーチ野郎になるかもしれない。
 あれから70年以上、ひたすら頑張ってきたのだ。そろそろ学習しましょうよ。


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by horonekop | 2017-08-12 16:46

楽しくて何が悪い?!

 随分昔、まだデジタルカメラなどなかった時代のこと。
 明け方近くまで呑んだ帰り道、「あー、写真が撮れない。スランプだぁ」と呟いたら、偉い先生に叱られた。「そんなのは怠ける言い訳だ。悩んで悩み抜いて、泥にまみれなきゃ」と。

 僕は根性論が大の苦手(というか嫌い)。楽しいことは楽しくやって、面白くなければ辞めればいいと思っている。
 無論、その先生を否定するつもりはない。実際に努力してきたことを知っているし、お互いに酔っ払ってたし…。
 努力とか根性とか、否定はしないが堂々と口に出して、ましてや他者に求めるなどということは、恐れ多くてできない。…というのは表向きで、星一徹と飛雄馬のような、根性で結ばれた親子関係がひたすらに気持ち悪いのだ。「お前ら、親子で何を頑張ってんねん?」って(笑)(自分の大リーグコンプレックスを息子に押しつけるなんて、ひどい親父だよ一徹さんったら)。

 人は、楽しければ勝手に頑張る。楽しくも面白くもないのに、汗水流してひたすら頑張るなんてどうかしている。
 こう書くと、反論は予想できる。ましてや、教師たる者が怠けを奨励するなんて…と、読解力の欠如した、または他者を批判したくてたまらない暇な人たちは大騒ぎするだろう。
 でもね、「頑張れ」とか「根性で乗り切れ」と言う人も、実は無償で頑張ってるわけじゃない。泥にまみれ、必死で努力した先に、例えば傑作をものにするとか技術を極めるとか、場合によっては名誉とか金銭とか、ずっと先には「なんか楽しいこと=お得」を見定めているのだ。
 射程距離が近いか遠いかの違いだけ。遠くの的を狙って地道な努力をすることは尊くて、近くの的を目指すのは刹那的、享楽的でダメって論理? 明日、隣の国から核ミサイルが飛んでくるかもしれないのに??(こっちの射程はかなり近いぞ)

 もちろん、将来を夢見て地道な努力を続けることを否定はしない。むしろかっこいい。
 でも、その努力が「確実に無駄になる」「おそらく何の成果も生まない」と思えるときに、それでも頑張り続けるのは愚かの極みだ。
 今8月、高校野球のまっただ中。球児たちは必死で頑張っている。将来のプロ選手を夢見て。
 でも、おそらくほとんどの球児は、将来「元野球少年」で終わるだろう。それでも「若いときに重ねた努力が、大人になってからの生き方を決める」とか、訳知り顔で大人たちは言う。「努力は裏切らない」「見る人は必ず見ている」なんて。
 ほんとかよぉ? 誰にも見てもらえず、若い日の努力を実らせることもできず、無名のまま消えていく人が世の中を支えているのだと、なぜ教えない? 君が歯を食いしばって努力しても、何の役にも立たずに終わることがほとんどだと、それでも頑張らなきゃしゃーないやんか、将来「かつて世界で活躍するアスリートを夢見たただの人」になって、もし子供ができたら「それでも生かされちまってるんだから仕方ないやろ」と、本気で子供に伝えるような大人になれと、なぜ教えない?

 頑張ればいいことがあるという、根拠のない無責任な嘘、「俺は頑張ってきたぞ」というただの自慢、聞き飽きた。
 芸術家の卵に「自分をさらけ出せ」なんて言うなら、まず自分がいかにさらけ出してこなかったかを嘆け。「恥をかけ」なんて軽く言うな。そう言っている自分はかっこいいと酔いしれておきながら、他者に恥を求めるなんてただの意地悪だ。倒錯してる。
 本当に大事なことは、死んでも口にしないだろう。それでいいのだとなぜ認めない。人に話せばすっきりする程度の苦悩は、街角の占い師にでも打ち明けときなさい。
 嫌なものは避ければいい、嫌いならしなくてもいい。面倒だけどそれでも何か楽しいと思ったら、大人が言わなくても彼らは自発的に努力する。それくらい、信頼してもいいんじゃないか? 子供を信用できないのは、自分が信用できない子供だったことの証。俺もまぁ、信用できる子供じゃなかったが、その反省を込めて信頼したいと思っている。

 僕の母はいい加減な人で、子供の頃「嫌いなものは食べなくていい」と言われ続けた。彼女自身が偏食だったからかもしれない。
 お陰で成長してから、「これではいかん」「おかんにひどい教育を受けた」と思い、進んで嫌いな野菜を食べるようになった。今思い返せば、実に見事な教育だった(最初から計算していたのかどうかは知らないが)。
 人間、好きなこと、楽しいことは必死でやる。嫌なこともするよう指導するのが教育だという声はわかるが、一歩間違うとただの強制、嫌がらせになる。嫌いなものも全部食べるまで帰さないという給食の指導に、職員室まで抗議に乗り込んだ母。それが信頼を生むのだ。
 僕は好きなことには必死の努力をする。小学生のとき、漫画を描きたくてデッサンを必死でやった。大人になってから、寝る時間を削ってプログラミングを学んだ。どちらも先の結果を夢見てではなく、ただ楽しかったから。

 頑張れとか努力せよとか言うな! 放っておいても自分から学びたくなるくらい、楽しいことを教えてやれ! 楽しければ、こちらがやめろと言っても努力するだろう。勝手に伸びていくだろう。
 先生は「ただ好きなだけでやっていられるのは今だけ。本気で取り組めば死にものぐるいの努力が必要」だと、訳知り顔に説くだろう。でも、そう言っている先生自身、好きだからやってきたのだ。物理の先生がサッカーの先生でないのは、国語の先生が数学を教えないのは、好きでなかったからでしょ?
 好き嫌いこそが人を決める。立派な人は、好き嫌いで物事を決めるなと言うだろう。でもそれは「自分がいかに知的で論理的か」をアピールしているに過ぎない。そんな知的な僕を(私を)見習って、という安っぽい下心、または無自覚の自慢。あんたが自慢しなくても、ほんとにかっこよければ勝手に見習ってくれるよ、心配すんなって(俺は見習わないけどな)。

 僕の「好き嫌いが原動力」説は結構批判される。青筋を立て、眉根をつり上げて猛反論する先生もいた。「僕は好き嫌いなんかで芸術を判断しない!」と。
 自分が冷静で知的なことアピールしたいのだろうけど、青筋立ててるところがとても感情的で、非論理的に見えるから可笑しい。人間なんて、矛盾に満ちた生き物だ。僕の言うことだって同じ。先生だからってむやみに信用するな? あ、内部矛盾を引き起こしたな、これは。脳内が無限ループに陥るかもしれない(笑)

 ってことで、ひたすら享楽的な戯言でした。
 ちなみに、お酒は入ってません(昼間なので)。
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↑ 彼は寝ることと遊ぶことと食べることには努力を惜しみません(飼い主に似てます)。


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by horonekop | 2017-08-09 18:12
 近年、学生の撮った写真に強い既視感を抱くことが多くなった。
 「記憶障害?」「認知症??」…いやいやそうじゃなくて、似たような被写体、共通した構図、どこかで見たような印象…という写真が目立つのだ。
 それも、圧倒的に女子の写真に多い。

 で、どれも「おっ、いいな!」と思うわけだ。
 ひところ(といっても10年以上前だが)流行した、いわゆる「ガーリーな」写真とも違う。
 カメラを提げて街を歩いていて、ふと目に止まった何でもない「モノ」(例えば自販機脇のゴミ箱とか、玄関先に置かれた鉢植えとか、歩道に停めた自転車とか)を、見たままの位置、つまりぐんと近付くでもなく、回り込んで角度を工夫するでもなく、しゃがんで視線を低くするでもなく、とにかく歩いていて見つけたときの位置から、素直に(言い方を変えれば「そのまんまに」)撮影した映像である。

 なんでこういう写真を「いいな!」と思うかというと、実はずーーっと昔(デジカメが使われるより以前、つまりフィルムの時代)から、僕が試みていたスタイルにかなり近いからである。
 昔は、被写体を見つけたら(ということは、何かに向けた眼差しに、自身の内なる琴線が触れたら、のような)、まずは正面から、さらにぐいっと近付いて、あるいは周囲を見渡して視線を引いて、などなど、街角スナップの王道というか、まあいわゆるセオリーみたいな撮り方、構え方があって、その上でピントや露出、角度などを工夫しつつ、自身の映像表現につなげていったりする、そういう態度が当たり前だった。
 なのでひねくれ者の僕は、そういう「何かを表現してやろう」という、僕が見つけるより先に厳としてそこに存在していたであろう「風景様」に対して失礼な態度を捨て、「歩いていて偶然出会った風景さんなのだから、風景の採取者たる僕もそのままの(出会ったときの)位置、そのままのあり方で写してみよう」と思って試みたスタイルだ。

 Webで公開中の「なんでもない日々」は、まさにそのスタンス。「いかにも写真表現でございます」という被写体との「肩肘張った接し方」を捨てるという、ひとつの試みである(とは言っても、一度染みついた「写真的な態度」ってのは、なかなか振り払えないのだけれど)。
 で、そのやり方に近い印象のストリートスナップに、最近若い女子の作品でお目にかかるのだ。
 えっ?俺が若返った?? いやいやそうじゃなくて、若い女子がオヤジになったのでもなくて…ですね、なぜなのか考えてみたわけ。

 まず、こういった撮り方を「何でもない視線」と呼ぶことにする(とりあえず)。
 若い女子たちがそのような撮り方をするのは、おそらく「スマホの影響」なのだと推測する。写真を学び、日々撮影にいそしんでいる写真学科の学生でも、デジタル一眼レフのファインダーより、スマホの液晶を覗く時間の方が多いだろう。
 スマホの液晶画面は、対象にレンズを向けると自分(=撮影者)の真正面を向く。「それは一眼レフでも同じじゃないか」と思うでしょ? ところが、ですね、低い位置にある被写体を撮影したいとき、一眼レフならカメラのボディを両手でつかんで低く構え、ノーファインダーで撮ることがごく自然に(写真撮影の経験があれば)できてしまう。背面の液晶ファインダーを、上下左右に90度回転できる機種もある。
 なのだがスマホは、さすがにそこまで親切な機能は付いていないし、そもそもボディが薄いから、両手で側面をつかんで低い位置に保つのは難しい、ってか、やってみればわかるが、シャッターを押せない。そう、「カメラ」は機械式のボタンがボディ上面(いわゆる軍艦部)の端にあるが、スマホはレンズ背面のボタンをタップするわけだから…ボタンが見えない。高い位置から構えて押すという操作を、前提としていないのだ。ローアングル撮影は人間工学的に無理なのである。

 スマホのカメラというのは、「見た位置のまま撮る」のが極めて普通、自然なスタイルになっているのだから仕方がない。せいぜい、縦長か横長かを選ぶくらいだ。
 そんなスマホでの撮影に馴染んでしまえば、「おっ!」と感じで撮影するときに、それがカメラかスマホかには関係なく、見たままの位置でシャッターボタンを押すだろう。
 写真を学んでいる学生なら、ひょっとしたらいろいろな角度から撮影しているかもしれない。が、たくさん撮った中から1コマを選ぶとき、結局「見慣れた角度」である、立ち止まって上から見下ろしたときの絵を選んでしまうのだと思う。だって、それが自然なんだから。

 カメラを持ち歩いている人が珍しかった時代には、見下ろす角度の絵は撮影ではなく、ただ肉眼で「見た」場合の構図だった。だから、せっかく写真機という道具で技巧を凝らして撮影した画像は、そういった「日常的なありよう」ではなく「普通だったらこの角度からは見ないよな」という、非日常的な視点が評価されたのだ。
 しかし、今は見下ろす視線が「見慣れた」だけではなく、「撮り慣れた視線」としても定着している。ならなおさら、撮り慣れていない非日常的な視線の方が斬新ではないか、と思う人もいるだろう。そうではないのだ。
 意表を突くような想定外の視点より、見る者と同じ視点で、見る者と同じような状況を、他者の目から改めて提示されることで「共感」を呼ぶのである。
 「私も同じような花を見つけて、いいなと思ったよ♪」という共感だ。

 特に女子の持つ共感力は、同一性、類似性に根ざす。ただ、絵面(えづら)が似ているだけなら、実は男子も同じようなところがあって、例えば鉄道写真や航空写真は、その手の専門雑誌に掲載されている写真と似たような絵面が評価され、マニアの男子たちはこぞってそのような写真を撮ろうとする。
 これは鉄ちゃん、飛行機ちゃんだけでに限らず、一般的なカメラマニア、写真マニアのおとっつぁんたちも同じで、カメラ雑誌に載っているのと似たような風景を撮影し、大きくプリントして悦に入ったりしている。例えば、水平線に沈む夕陽とか、城跡の手前に満開の桜とか、スローシャッターで撮った滝とか…その他いろいろ。
 女子の撮る写真が男子のそれと異なるのは、共感を求める最大公約数的な撮り方でありながら、なおかつそこに「個性」を刻み込もうとする点だ。それも、男子の狙う技巧的な個性(例えば超広角レンズとか、スローシャッターで流し撮りとか)ではない、「特に意図してないけど、結果として出ちゃった私風」みたいな個性。

 以下、性差別だと言われたら困るんだけど、決してそういう意図ではなく、あくまで社会学的な「性差」の観点から述べる。

 男は「俺たち仲間だよな」と言われてそれに同意すると、立場は違っても目指す理想は同じ…といった目的共有をしたものだと受け取る。が、女は「みんな一緒だよね」と言われて「そうよね」と同意すると、内面では「でも、私はあなたたちとは違うのよ」と、密かに思ったりしてしまう(らしい)。
 これは、原始の時代にヒトが群(むれ=集団)を作って暮らし始めたとき、集団に対する帰属の捉え方が、そもそもオスとメスとで異なっていたことに起因する(ようだ)。オスは集団でみんなの食べる餌を狩るため、集団の機能的な働きのために自我を抑制する必要があった。それに対してメスは、集団内に形成された自身と子供という小集団(=家族)を維持するため、同一集団内においても他の小集団との競争を意識せざるを得なかった。
 どうもこの頃の「太古から受け継いだ集団意識の差」が、悠久の時を経てなお、我々のDNAに刻み込まれているようなのだ。
 それは、実にいろいろな局面で現れるのだが、21世紀のスマホ写真においてさえ、見事に現れてちゃっているのではないか? …と、いうことである。

 だって、僕が件の撮影スタイルにたどり着いたとき、それはそれは随分と考えたのだ。それまでの「写真」という手段のあり方、それを踏まえて構築されてきたであろう「よい撮り方とダメな撮り方」という呪縛。見たままではいけない。撮影者、表現者としての工夫をしなければ…という暗黙の脅迫(または自己規定)。個性とは他者と異なることなのか? そして、日常を日常のスタンスで撮って何が悪い?という開き直り。
 …そんなこんな悩んだ日々が、女子にとっては「だって綺麗な花を見つけたんだもーん」ってノリで片付いてしまったわけだ。
 偉ーーい先生に、上から見下ろすんじゃなく、被写体と同じ目線になって…と批判され、足許に咲いている花を、なぜ足許に咲いているままに撮ってはいけないのかと考え続けた苦悩の日々(というほど大げさなものではないが)は何だったんだ?と思うよ、私ゃ。

 女子たちは、足許の花と、それを見つけた自身を「なんてことない、ごく自然な様子」として具現化する。それでいて、影や空気感に「自分らしさ」を漂わせていたりする。
 これだよ、これ! 大阪・中崎町界隈で撮り始めて10年を越えるけれど、参ったなー、その頃小学生だった女子たちが、ごく自然に身に着けてしまった対象との関わり方。実は今でも、考えては撮り、撮っては考えているんだゼ(ほんとだよ、嘘っぽいけど)。
 スマホの登場が「ものの見方」を変えた。生活がテクノロジーを生む時代は終わり、テクノロジーが人の意識を変える時代になっているのだ。

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大学の喫煙所で(もちろん立ったままの位置から)

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by horonekop | 2017-06-04 17:00
 中学生のときだった。
 その日は担任の先生がお休みで、1限目のホームルーム(HR)は道徳教材を用いての話し合いになった。
 司会は委員長のW君。
 隣のクラスの先生から指導用の赤本を渡され、「犬に比べて人間の優れているところを、みんなで考える」ことになった。
 W君が教壇に立ってそう言うと、1人の女子が真っ先に「私は犬の方が優れていると思います。だって、犬は自分の子供を殺したりしないもん」と発言した。
 みんな「そうだ、そうだ」「賛成」と次々に賛同。
 赤本の筋書きと違うので困ったW君、「でも、犬は人間に噛みつくよ」。する別の男子が「それは、人間が悪いことをするから、身を守るためやろ? 人間は、人のお金を盗むために人を傷つける」。
 するとまたみんなが「そうだそうだ!」の大合唱。拍手♪

 結局その日のHRは、「犬は人間に比べていかに優れているか」をみんなで列挙して終わった。
 授業後にW君は「『赤本に書いてあるとおりにやりなさい』と言われたけど、全然予定と違った」とこぼすので、僕は「それは赤本が間違ってる。君は悪くないよ」と慰めた。

 大人がいくら子供たちを意図したとおりに導こうとしても、子供たちはそんな大人のずるがしこさを見抜いている。
 HRの出来事も、赤本ではきっと「人間は困っている人を助けるが、犬にはできない」とか、そういった答えを大人が期待していることを僕たちはちゃんと知っていて、わざと(まるでゲームのように)大人の期待しない答を探したのだ。人間が犬に比べていかに愚かなのかを考える時間は実に楽しく、普段のHRよりずっと盛り上がった。

 大人の考える「望ましき子供像」など子供はとっくに知っていて、それを裏切ることを遊びの領域に移動させることくらい朝飯前なのだ。
 だから、大人たちがいくら「美しい日本の伝統文化」を教えようとしてパン屋を和菓子屋に変えようが、公園の遊具を和楽器店に変えようが、子供たちは大人のずるさを見抜いている。
 文科省は「意図的にパン屋を否定したわけではない」と弁明するが、もちろんそんなことは子供たちだって知っている(さすがに小学1年生には難しいかもしれないが)。
 確かに文科省の言うとおり、「パン屋を和菓子屋にしないと検定不合格」と脅したわけではない。文科省のお役人たちの意向を教科書会社が(最近流行の)忖度し、後から文句を言われないよう先回りしただけのことだ。

 いやいや、だから文科省は悪くないとか、そういうことを言っているのじゃない。
 独裁者が出版社や教科書執筆者に、権力でもって書き換えさせた方がまだ白黒はっきりする。
 何も強制しなくても、力関係を示して何か呟けば、それだけで出版社が言うことを聞いてしまう「忖度社会」の方が、一見自主的変更に見えるだけ遙かに恐ろしいのだ。
 安倍さんちの昭恵ちゃんの件でもそう。彼女は「森友さんに土地を安く売ってあげてね」なんて言っていないだろう(多分)。政府の職員に「財務省に質問を送っといて」くらいしか言っていないのだろう(おそらく)。問題になるようなことは何一つしていないのに、周囲が気を回して、結局は狙い通りになるという、忖度の汚さが問題なのだ。
 甘利さんみたいに金をもらって口利きする方が、遙かに潔い(あ、賄賂を肯定しているわけじゃないっすよ)。

 で、文科省さん、パンが日本の伝統に照らして好ましくないわけじゃないことはわかったが、だったらなぜ「パン屋→和菓子屋」をもう一度「→パン屋でいいじゃないか」と検定意見を付けなかった?
 「お前ら教科書会社は、政権に媚びた俺たち役人から何か言われたら、大事な将来を担う子供のための本を、あっさりと書き換えちまうのか? そんないい加減な態度で教科書を作ってるのか?」と、なぜ忖度した彼らを批判しない? それが教育者のあるべき姿だろ?

 大体、あのニュースが出たとき思ったのだ。
 パン屋がダメで和菓子屋にしろと言うなら、やなせたかし先生の名作「アンパンマン」は「ぼた餅マン」にでもしないとだめなのか?って(笑)
 ジャムおじさんは「あんこ爺さん」、…いや、「~マン」は敵性外国語(笑)だから、「ぼたもち丸」とか「せんべい左右衛門」に「ばいきん之助」なんてのがいいかも。
 それと文科省の役人たち、お前ら子供に日本の伝統文化を教えろって言うくらいだから、まあ仕事中は仕方ないとして、家に帰ったらスーツを脱いで和服を着てるんだろうな? 下着は絶対ふんどしだぞ、いいな!
 マンションの洋室でソファに腰掛け、ブランデー飲んでジャズとかロックなんか聴いてたら、ただじゃおかないからな! 畳敷きの和室で座布団弾いて日本酒を飲み、あぶったイカでもかじって津軽三味線でも聞いてるんだろうな? ぜーーーったいそうだろうな?

 ちなみにだけど、和服は呉の国から伝わった生地の織り方(だから呉服という)が原点だし、和菓子の製法は中国伝来の文化。
パン生地は確かに西洋由来だけど、中にあんこやクリームなどを入れて生地で包む製法は日本発祥。

 文化というのはこのように、いろいろ混じり合って変化していくものだ。歴史を教えるのはいいが、ことさらに「我が国固有の○○」を押しつけないでいただきたい。
 その昔、海外の要人に宮廷音楽を披露するとき、管楽器(笙(しょう)とか篳篥(ひちりき)とか龍笛(りゅうてき)とか、そんなの)のキー音をB♭(「シ」の派半音下がったの)に統一させたのは文科省じゃなかったっけ?(情報が不確かで悪いけど) これって、日本の伝統を怪我してるよね。


 大体、大人が子供に『これが正しい』と教えるものって、にわかに信じられないんだよね(これはあくまで、個人の性格の問題だと思うが)。
 「教育勅語にもいいことは書いてある」という人は少なくない。「親を大切に」「夫婦は仲良く」「兄弟は力を合わせて」…んなこと、わざわz教育勅語を持ち出さなくても、過去の道徳教材で十分カバーできる。大体、力を合わせようにも、少子化で兄妹姉妹のいない子供が多いし、家族や近所の人とは仲良くって書いていても、見知らぬ他人や外国の難民に優しくとは書いてないやんか。
 問題にされているのは「なぜ、今、教育勅語なのか?」だよ。
 『いざとなったら国のために死になさい』というところが問題だというのではなく(それもあるけど)、国の偉い人が勝手に決めた価値観を、無垢な子供に押しつけないでくれ」ってことなの。
 夫婦仲良くというときの夫婦って、(安倍さんとか籠池さんちのような)「男と女の夫婦」が前提。でも今は、LGBTの4文字を出すまでもなく、男同士や女同士で夫婦になったっていいじゃないかという時代。
 いまだに男女は同姓(同じ苗字の方ね)であるべきとかいう古くさい(明治になってから作られたので、実はあまり古くないのだけど)価値観を前提に、道徳を説かれても困るんですよ。

 自由な考え方、多彩な生き方が大切だと片方では言いながら、めっちゃくちゃ窮屈な生き方を子供に押しつけようとするのが気に入らない。
 だったらいっそ、「働き方改革」だの「女性の社会進出」だのはさっさと取り消して「女は家で子供を育て、男は家の長として家族を養い、いざとなったら国のためにしになさい」と、思っていることをはっきり言えばいいじゃん。その上で、それを選挙公約としてアピールすればいい。
 中絶はダメ、離婚は認めない、男女は同姓で、女は男の家に入るべき。尊属殺人罪復活、不敬罪も復活、戦後レジームから脱却して戦前に戻ろうと言えばいい。それで国民に判断してもらいなさい。小賢しいごまかしをせず、堂々と自分の理想とする「美しい日本」を訴えればいい。全面反対してあげるから(笑)

 だいたい、お年寄りを大切にせよ、と年寄りが言ったり、我が国を愛せよと我が国の偉い人(=そのことで何かしら得をする人)が言ったりするのは、どうしても胡散臭い。ああいうのは、自分から言うものじゃないんだよ。
 あなたが女性だったとして、いきなり見ず知らずの男が現れて「僕と結婚しなさい、僕を愛して僕の子供を産みなさい」と言ってきたら、驚くより先に逃げ出すでしょ? キモいもん。政治家が「愛国心」を説くというのは、実にそのような感触なのだ。

 口うるさい嫌われる年寄りでもいいじゃないか。なんでそんなに好かれなきゃならないの?
 そんなに愛されたければ、国民が何も言わなくても命をかけて守りたくなるような、汚職のない、変な押しつけのない、世界平和に貢献する、愛される立派な日本になるよう、努力してください、日本を動かしてい偉い人たち。

 教育勅語の説いている「日本を愛し、命をかけよ」は、まず政治家と役人にしっかり教えてあげなきゃなりませぬ。

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by horonekop | 2017-04-08 16:24

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去年はミニトマトが10月に赤い実を付けたが、今年はなんと普通のトマトが、11月に実を付けた。それも、大小合わせて5個!


さすがに赤くはならなかったが、この寒いのになかなかの根性である。自然の生命力にひたすら感嘆♪






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by horonekop | 2013-11-30 18:11


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食欲の秋なんて言うけれど、これだけ食材偽装のニュースが続くと食欲も失せちまう。まぁ、ホテルの高級料理なんて縁がないから、いいんだけど(笑)。


偽装が報道されるたびに偉い人が頭を下げ、担当者の勘違いだの何だのと「意図的ではない」旨の釈明をする。


ほんとに意図的じゃないの? だったらなぜ、「安い食材を高いもののように」間違えたという報道ばかりなのだろう? 1件くらい、「本当はkgン万円の高級肉なのに、担当者が間違えて安物のお肉の価格で提供していました」なんてことがあってもいい筈なのに…。


それにしても、ホテルやレストランだけじゃなく、例えばどこかのケーサツ署でもそうだったけれど、上に立つ偉い人というのはどうしてこうも堂々と「自分の責任じゃない」と言っちゃえるのだろう?


悪いのはみんな下っ端。私も被害者。テレビカメラの前で一応頭は下げるが、反省なんてしていないのがよくわかる。調べが進んでいよいよやばくなったら、やっと引責辞任。それまでに、どれだけの下っ端が迷惑を被ったと思っているのだろう?


往生際が悪いの一言では済ませたくない。人の上に立つ人間の器が、どんどん小さくなっているようだ。


部下の前で偉そうに振る舞っても、いざとなったら彼らに責任を押しつけて逃げるだけ…。情けないなぁ、みっともないなぁ。


食材だけじゃなく、トップの器量も偽装されているようだ。


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by horonekop | 2013-11-01 18:59

せーてんのへきれき

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4月から新学期。昨年の後半は手術・入院で迷惑をかけたので、次年度は気合いを入れて…と思っていたのだけれど、なんとまぁ、いきなりの担当変更である。



3回生のコースを受け持つことになった。それも半期のみ。Webデザインがテーマなので面白いのだけれど、1、2回生の実習も講義もなくなってしまったので、若い連中と触れ合う機会が激減することになる。



残念だ。



時間は余り収入は減るというのも大問題。



学生数減少の折から、体制を組み直すのは仕方ないと思う。それにしても、だ。もっと早いうちに知らせてくれればよいのに、こんなぎりぎりの時期では対処のしようがない。まさに青天の霹靂。



学科に不利益行為を働いた覚えもないのに、何でこうなるのだろう? ひょっとして、講義で毒舌をはいていたのを盗み聞きされたのかな(笑)



とにかく、シューカツ(終活じゃねーよ)しなきゃ。




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by horonekop | 2013-02-11 15:19

文楽×モトクロス○?!

橋下大阪市長ったら、児童文学やお笑い、文楽などの事業には、財政悪化を理由に金を出さないと大声を上げるけれど、大阪城のモトクロスには大乗り気。



僕もモータースポーツは好きで、昔は淀川の河川敷にバイクを持ち込んで遊んだりもしたけれど、それとこれとは別問題。



文化的なものは予算の無駄遣いで、客を呼べる派手なイベントは大歓迎というこの単純な発想には恐れ入る。



趣味でやってるのかよ? と、言いたくなってしまう。



大阪市民の皆さん、あなた方が、そして我々がバカにされているのだと思いませんか?


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by horonekop | 2013-02-11 12:29

 遠隔操作ウィルス事件の容疑者が逮捕されたと、マスメディアが大騒ぎしている。テレビのニュース番組では、容疑者が子供の頃いじめられていたとか、オタクでネコ好きだとか、事件と関連があるのかないのかわからないような情報が飛び交っている。



 で、ふと、なんでこんなに大騒ぎしているのだろう、と思った。



 この事件って、古くさい手口の遠隔操作でネット掲示板に殺害予告を書き込み、罪状は威力業務妨害だったはずだ。実際に傷ついた人はいないし、誰かが金を奪われたとか、そういった騒ぎにもなっていない。



 この事件をこれほど大げさなものにしたのは、サイバー犯罪と呼ぶにはあまりに単純な事件をまともに捜査できず、誤認逮捕までやらかしてしまった警察の失態にある。



 すぐに犯人が捕まっていれば、新聞の片隅に掲載されてそれでおしまい、程度の出来事だったのではなかろうか。



 問題にすべきは、誤認逮捕された人が自白までさせられていることの方だ。



 一体警察は、どのような取り調べをしたのか? 机を叩いて恫喝し、「今素直に認めれば執行猶予だけれど、否認を続ければ懲役X年だ」とか、勘と脅しの古くさい捜査だったのではないだろうか?



 報道関係の皆さんには、そこのところをもっと突っ込んでいただきたい。



 パソコンに詳しいネコ好きに要注意とか、そんな噂が広まっては困るのだよ(笑)



 


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by horonekop | 2013-02-11 12:15

はつひのでっ♪



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夜型人間だったので、大晦日から元旦への年越しの瞬間は、いつも起きて迎えていた。


が、昨年の秋から早寝早起きを励行することにしたので、大晦日は午後11時に寝て元旦の朝は6時半頃に寝覚めた。


おかげで、初日の出というヤツを拝むことができた。


で、よく考えてみると、これは『生まれてはじめての初日の出』ではなかろうか。


そもそも、通常の日の出自体を見た記憶が、物心付いて以降数回しかないのだから(笑)。


そんな訳で、世間ではありがちな初日の出の写真を、思わず撮ってしまったのだった。



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by horonekop | 2013-01-04 17:05