hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop

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 現在のコンピュータの基礎とも言える機械式計算機「階差機関」を設計した19世紀の学者チャールズ・バベッジと、彼を資金的にも技術的にも援助した貴族の女性エイダ・オーギュスタについて、コンピュータ史を学んだ人ならご存知だろう(気になる人は、拙著「ソフトウェアの20世紀」をお読みくだされ^^)ゞ)。

 人類最初のプログラマーと呼ばれたエイダを取り上げた映画「クローン・オブ・エイダ」(1997年、独/米、リン・ハーシュマン・リーソン監督)の中で、エイダはこんな科白を呟く。「やがて計算機は詩を読み、音楽を奏でるわ。石頭の科学者には、芸術がわからないのね」
 本当にそう言ったかどうかはわからないが、今も脈々と続いている技術と芸術のすれ違いを表す言葉として、19世紀の人物にこう言わせたのは面白い。古代ローマの落書きに「最近の若い者は…」とあったというけれど、知識と感性、技術と芸術のすれ違いもまた、時を超えた人類普遍のテーマなのだろう。

 そんなエイダの父は、天下の詩人バイロン。そして彼女は、貴族の娘として数学などの教養も身につけた。感性と論理性、数学と芸術、これらは決して相容れない水と油ではない。
 日本では、人や学校を「理系/文系」と単純に二分化することが多いけれど、それは大学進学を見据えての高校側の戦略でしかない。
 「君は数学と物理の成績がいいから理系ね」みたいな感じで、生徒の進学先を簡単に振り分けることができる。でもね、数学と歴史が好きとか、古文と音楽が得意って子供もいるのだよ。
 結局、教師の手抜き(または怠惰)が、「理系/文系」という短絡的な二分法をあたかも常識のようにしているだけのことだ。

  もちろん、高校の進路担当教師にすべての責任があるわけではない。悪しき二分法の元をたどれば、大学の学部、学科が縦割りだというところに行き着く。医者になりたければ医学部で医学を専門に学び、法律関係の仕事をしたければ法学部で法律を中心に学ぶ。
 高校の進路担当も、この図式に迎合せざるを得ない。そんな硬直した「将来展望のモデル」が存続する限り、理or文の選択作業は続く。
 しかし最近では、学部や学科を横断的に、自分の興味ある学問を選択する方式を採用する大学も登場してきた。少子化による学生獲得合戦が背景にある。「将来何をしたいかよくわからないけど、とりあえず大学に行けって親が言うし…、なんか好きなことだけつまみ食いできればいいのになぁ」ってな感じの高校生にはうってつけの仕組みだ。

 実際、そういう高校生は少なくない。学校で、先生に「早く進路を決めないと」と言われて、仕方なく18歳で自分の将来を固定化せざるを得なくなる。ならば、あと4年の猶予を与えましょう、というわけだ。これって、悪くない。
 というか、よい。
 (「昔は14歳で元服したんだ」とか「16歳で戦争に行ったんだ」とか、今更言われても困るよね)
 仮に、進路を決めあぐねている高校生を取り込む目的が根底にあったとしても、学問のセクト主義、縦割りを壊すという形に賛成する。そもそも、「これとこれを学べばこんな仕事に就ける」という発想自体が時代遅れなのだ。
 既にあるいくつかの分類の中に、自分の興味や得意分野を、むりやり押し込まなければならない筋合いなんてない。

 各自の興味や能力を存分に発揮できる受け皿を作ることを、社会はしなければならない。興味や得意分野から、逆に仕事(職種、業種、部門)ができたっていいじゃないか。
 営業は商品を売ればよく、経理はお金の計算をすればよい、という固定化した価値観を崩すときが来ている、というか、そんな価値観はとっくに壊れてしかるべきだったのだ。
 あることを学ぶために、まずその歴史や基礎技術を…と、一方向のベクトルで線的に積み上げていくのではなく、それを取り囲んでいる様々な情報群を面的に捉え、広範囲な知識をベースに学生自身が「知の体形」を自身の中に積み上げていくことで、新たな学問、新たな仕事(社会へ働きかける手段)が構築されていくだろう。

 そのためには、まず教師が変わらなければならない。教師の頭の中が、だ。今の学校では、教員はそれぞれが専門分野に細分化され、縦割り状態になっている。「あの先生は○○の専門家」といった具合に。
 昔のことだが、僕が暗室でアナログ写真をプリントしていると、学生がびっくりして「先生、暗室に入るんですか?」と訊いてきたことがある。僕は元々アナログから写真を始めて、デジタルより長くやってるんだよ」と答えたが、要するに「デジタルの先生」というイメージを抱いていたわけだ。
 実は僕は、アナログ技術にもかなりうるさい。が、(デジタルの苦手な)アナログ担当の先生がいるから、余計な手出し口出しはしないでいるだけのことだ(僕は慎ましく、遠慮深いのである(笑))。

 教師にもお互いの縄張りがあり、それを荒らしてはいけないという不文律というか暗黙のルールみたいなものがある。
 しかし、今必要なことは、そんな縄張りを飛び越えた、総括的な見方のできる教師だと思う。それも技術面だけに留まらず、他の美術やメディア、インターネットをはじめとするITの知識などを関連づけ、学生に将来展望を描いてみせられる人。
 全員がそのようになれというのではない。それぞれの専門分野で極めた知識と技術ももちろん必要だ。ただ、それらを統合し、制御できる仕組み持たないと、大学はただの「専門家集団」で終わってしまうだろう。

 そういった考えの具体化のひとつに、かつては産学協同プロジェクトなんてものがあった。が、これももう古い。産学協同は、結局は先に述べた知識と技術の線的結合の行く末でしかない。
 例えばデザインの専門家を育てる過程の先に、デザインの専門家を必要とする社会システムが待ち受けている、という形だ。
 僕の言っているのはそうではない。デザインを学ぶ学生が写真やインターネット技術も学び、さらにメディアのあり方や将来について考察できるだけの知識とセンスを身に着けて、新たなデザインのあり方を模索できるような、あるいは入口がデザインであっても、それに関連する別の職業に就いたりできるような、そんな柔軟な学びのシステムを再構築するべきだと思うのだ。

 学校と社会の、それぞれ硬直したシステムが、大学と社会の硬直した関係を生み、維持してきた。
 ブツがブツを運んだ20世紀はそれでも効果があった。もう21世紀になって15年が過ぎる。今運ばれているのはブツではなくメッセージだ。それはあらゆるオブジェクトから発せられる、形のない存在。
 教育は究極のメッセンジャーである、と、僕は思っている。

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by horonekop | 2015-12-30 14:40 | 日記・その他

科学とアートの間には…

~線的結合から面的融合へ


 科学・技術分野、いわゆる応用的理系分野は、アートへの接近を試みる。大企業のプロダクトでは当たり前のこと。
 理系の人たちだからと言って、美術や音楽が全く理解できないとか、全然興味がないわけではない。絵を描く科学者やロックバンドをやっているお医者さんはざらにいる。
 一方アートに携わる人たちの多くは、技術屋が論理的なことやメカの説明を始めると「わかんなーい」となることが多い。この場合の「わかんない」は、「聞く耳持ってません」とほぼ同義だ。
 音楽や絵画などのアートには趣味としての側面があるが、科学・技術系分野の研究を純粋な趣味、個人的な楽しみとして行っている人は稀だろう。いや、むしろアートは、職業より趣味と捉える人の方が圧倒的に多い。
 趣味、つまり個人の楽しみであれば、興味外の面倒なお勉強をするもしないも個人の自由、私の勝手である。そんなところも、両者の意識のすれ違う原因なのだろう。

 先頃他界された野坂昭如さんの名曲「黒の舟歌」をもじれば「技術と芸術の間には…」という感じか。深くて暗い河というか、高くて面倒な壁があるようだ。科学技術がアートに一歩近寄ろうとすると、アートは一歩退くようなところがある。あくまで、それらに携わっている個人レベルでの話だけれど。
 科学・技術とアートに限らず、様々な学問や趣味的領域がそれぞれ個別に活動する時代はもう終わった。いや、実ははじめからそんなものは幻想だったのだ。
 人間が社会を構築した初期の時点では、歌や踊り、やがて絵や文字が呪術的なツールとして機能し、それらはやがて権力者の統治ツールとなり、呪術は魔法を経て哲学、物理学、数学へと分化し発展していった。
 そして経済活動が始まり、技術もアートも経済システムの中に組み込まれていった。根源的に、数学も物理学も考古学も、音楽や文学や絵画と密接に絡んでいる。
 特に写真は、そもそもの撮影装置自体が科学・技術のたまものであり、制作活動の根底には数学がどっかーんと居座っている。その誕生の動機である絵画制作の効率化とは、結果的に記録システムの効率化である。

 個々の手段、知識や技術が高度化したため、それぞれが分化し個別化していった。教育システムもまた、その流れに沿って組み上げられている。
 しかし、総括的な人間の社会活動を、分野ごとに区切ったことが間違いじゃなかったのかと、そう思う。もちろん、複雑になるばかりの社会システムを理解するために、カテゴライズは重要である。それを否定しているのではない。
 物事を研究し学ぶには、その対象とそれを取り巻く種々の環境をうまく切り分けることが必須だ。が、そうやって研究し学んで得た知識を実社会で応用するためには、一度切り分けた様々な要素を結合し、再構築しなければならない。
 細切れに送信したTCPパケットを、受信先で並べ直すような感じで(と言ったら、IT系の人にしか通じないかも)。

 学問、特に大学でのお勉強の話に移る。
 個々のテーマに切り分けてそれを専門的に学び、あるいは技術を身につけることももちろん大事だけれど、実社会での応用を踏まえ、他分野と融合した形での、あるいは他分野との融合を前提とした形での「学び」ができないものかと、常々考えていた。
 これまでの学び方は、主眼となる分野に対して関連する知識や技術を線形につなぐことで組み上げられていた。
 写真であれば、
  仕組み→撮り方→補正・加工→プリント→展示
  写真史→美術史→現代アート
 そして、各項目を取り巻く他分野の情報(例えば法律とか色彩学とか)を、オプション的にちりばめてひとくくりにする…という形だ。

 今は、もっと視野を広げ、例えば写真を中心とした様々な分野の知識や情報を俯瞰する形で示し、学ぶ側(学生)の興味や関心、あるいは将来展望に沿って関連づける形で、つまり面的融合を図って「学びの流れ」を組み上げていくべきではないだろうか?
 そうすれば、冒頭に掲げた科学・技術とアートとの連携も、学ぶ個人の内部ですんなり(は無理だとしても、どうにかこうにか)「ひとつの形」として体を成すのではないだろうか。
 それぞれの分野(学部や学科)が相互協力して、ということではない。学ぶ個人の中で、「これは理系、こっちはアート系」などといった垣根を取っ払った発想が出現する、という意味に於いて、つまり学ぶ側の意識の問題としての「線的結合から面的融合へ」ということである。

 そして当然だが、教える側はその要請に応えなければならない。学ぶ側の、分野の垣根を越えた要望に応じるべく、さらに、学んだ結果を個人内部で統合して社会に通用する体系としてまとめ上げるべく、教育体制を変革しなければならない。
 教師が変わらないのに、学生の意識だけが変わったりは絶対にしない。いや、することはあるが、そうなったら教育の敗北だ。仕組み自体を変えなければ。
 化学によって絵画制作の合理化を図った写真術は、両者融合の初期モデルだと言える。だから、というわけでもないけれど、写真教育は時代に即して最も変わらなければならない分野のひとつだ。

 線は延びるが、方向が変わらない。一方、面は広がる上に重なることもできる(三次元的に)。重なってできた立体を「層」と呼ぶ。その厚みが、世の中のギアのかみ合わせを変えるのじゃなかろうか。


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※ 写真は、科学とアートの将来を考えるにゃんこさん。


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by horonekop | 2015-12-30 14:30 | 恋愛・結婚

 先の記事でブラッドベリの「華氏451度」に触れたので、ついでに書き添えておこうと思う。
 この小説が書物への愛に満ちていることはご存じの通り。しかしそこで愛着の対象となっている「書物」は、紙を綴じた物理的な「本」ではなく、書かれた内容、著者の思想、人間の思索の結果であり、それを受け継ぐ人々の営みをこそ「愛」だと言っているのだ。


 トリュフォー監督の映画版「華氏451」の感動的なラストシーン、逃げ果せた人々はまさに「書物の伝道者」となって森の中を歩いていく(映画版の「図書館戦争」では、ラストシーンで大きな書架の前を人々が行き交うシーンが、それへのオマージュとなっている)。


 折しもA.トフラーの「第三の波」が出版され、活字メディアの終焉か、などと騒がれた時期である。おそらくブラッドベリは、書かれた内容が何によって運ばれるかではなく、それを他者へと伝え残すために運ぶ営みこそが重要なのだ、と考えたのだろう。
 こうして伝えられる「中身」をメッセージという。


 昔そう考えたことを思い出したのは、先日ある学校の授業でオブジェクト指向プログラミングについて述べたときだった。
 コンピュータの資源すべてを制御下に置き、まるで「神」になったかのようにその中に世界を構築するという旧来のプログラミング手法に対して、ゲームのキャラクターをデザインするように、コンピュータの中に様々なモノをオブジェクト(=登場人物)として定義、配置し、その振る舞いを見守るというスタイルに変わったのだと、そこで述べた。


 定義した個々のオブジェクトたちが情報を交わすことで、プログラム世界は動き出す。そのやりとりで使われる情報はまさに言葉であり、芝居の台詞であり、それをメッセージと呼ぶのだと。
 ちなみにだが、「読む」は「呼ぶ」から来た言葉。自身の外にあるモノを内へと導き入れる行為を指す。その対象が人や動物なら「呼ぶ」であり、言葉であれば「読む」として、自身の内部にその意味を導くことになる。こちらから先方へ向かうと、これが「寄る」になる。


 テレビが登場し、メディアのあり方が論じられるようになった時代と、オブジェクト指向の考え方が登場した時代とは、まさに重なる。
 キーワードは「メッセージ」だった。
 そこから何十年かが経過し、文学や絵画、写真などアートの世界でも、メッセージという言葉、メッセージングという考え方が取り上げられるようになったことをご存じの方は多いだろう。ブラッドベリは、1960年代、既にそのことを予見する物語を書いていたのだ。


 なぜプログラミングの勉強でこのようなことを話したのかと言えば、プログラミング技術の書籍などに「オブジェクト指向は難しい」とか「オブジェクトとは操作の対象物のことです」などと書かれているのが、僕はウザくって仕方なかったからだ。
 まず、オブジェクト指向は難しくない。だって、AT車の方がマニュアル車より簡単じゃないか。全自動のカメラの方が、昔のフィルムカメラより簡単じゃないか。それと同じこと。
 それを「難しい」と言うのは、古い考え方から抜け出せない人が、「新しい考え方になじめない」と言っているだけなのだ(オブジェクト指向を「新しい」というのも、なんだかおかしなことだけれど)。


 「操作の対象物」という表現自体に、過去のプログラミングから抜け出せない感が漂っている。オブジェクトは「ただのブツ」だ。コンピュータの中の複雑な仕掛けを、抽象的に「日常のアイテム」と捉えちゃおう、という考え方であり、そのアイテムさんたちが吹き出しを開いておしゃべりしているような感じで捉えれば、どうってことはないのである。
 「操作の対象物?」「オブジェクト間通信?」「派生と継承?」大人たちが頭を抱えている間に、子供たちがScratchでゲームを作ったりロボットを動かしたりしている。


 自由な発想、と大人はよく言うけれど、子供たちは自分の着想が自由だなどとは微塵も思っていない。それこそが「自由な発想」「何物にも囚われない見方」なのだと思う。
 いきなり関係のないことを言って申し訳ないけど、「戦争して人が死ぬのと、かっこ悪くても物事を平和的に解決するのとでは、どちらが幸せになれるか?」自由な発想で考えてみたい。



by horonekop | 2015-12-16 17:52 | 日記・その他

 消費税の軽減税率、外食をどうするかで揉めていたけど、どうなんだろう? 生活に最低限必要なものだから3%安くするというお話だが、じゃあいっそ無税にしろよと言いたい。
 外食を軽減に含めると1兆円の損失となるから、低所得者向けの減税をやめるとかって、おいおい、確か社会保障充実のために消費税を上げるって言ってたよね?


 それにしても、なぜ軽減の対象は食い物だけなのか? 新聞は含まれることになったけれど、書籍、雑誌は引き続き検討…って、政治家の「継続案件」という用語は「結局やらない」と同義だよ。、
 「本は勉強のためでもあるから、せめて教科書は軽減に」なんて意見もあるけど、僕としては文字媒体はすべて(電子書籍も新聞の電子版も)、さらに音楽と映画も無税にしていただきたいと思っている。
 全部、(よりよく)生きるのに必須だと思うからだ。「教科書だけ軽減」とかって、なんか効率主義、成果主義みたいでイヤだ。いい点を取るとか、いい学校や会社に入るとか、もうそろそろそういうは発想は終わりにしませんか? と、言いたい。


 さてさて、政治屋たちは、どうやら「国民には、何か食わせておいたらそれでいいんだ」と、あるいは「人間は物を食うだけで生きてける」とか、そんな風に思っているらしい。昔「貧乏人は麦を食え」と言った大臣がいたよなぁ…(池田勇人が1950年12月の国会答弁で発言して物議。でも、今ならその方が健康的だとも言えるんだけど)。 
 外食を含むかどうかという議論も、政治家(とセレブな)連中の考える「外食」と我々庶民の「外食」とは、ずいぶん開きがある。こっちはファミレスやコンビニで昼飯食べてるのだよ。
 確か麻生は、大臣になったとき「カップラーメンの値段を知っているか」と訊かれて「400円くらいですか?」と答えた。こんな連中が、国民の生活必需品を判断できるわけがない。税金を投入した霞ヶ関の託児施設に子供を預けて夫婦でエリート官僚やっている連中も同じ。


 「政治家にとって言葉は命である」と言われるが、その「命の言葉」がここまで軽んじられた年はなかった。勇ましいだけで思考のない言葉、一切の批判と議論を拒否する言葉たちが目白押しの2015年だった。


 こんな一文がある。
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一切語ることを拒否してフィーリングの世界へと逃避したいと思っても、そのように思考すること自体がすでに言葉に依っていることに慄然として気づかねばならないのだ。
(丸山圭三郎「言葉と無意識」より)
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 外食をどうするかも大事なことかもしれないが、書籍をどうするかもしっかり論じてほしい。うむ、書籍とか本というよりここは「書物」と言っておきたい気分。
 軽い言葉で日本を好きにしようと目論んでいる政治屋のみなさんには、「図書館戦争」の下敷きにもなっているブラッドベリの「華氏451度」を読んでいただきたい。
 言葉を軽んじるということは、思考を捨てるということだ。国民が思考を捨てて自分たちに従うことを望んでいる人たちにとっては、書物など逆に1000%の税をかけたいのかもしれない、などと思ってしまう。


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写真は、ディスプレイの前で振り返り、思索するうちのネコさん…じゃなくて、多分テレビを見ていただけだと思う。


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by horonekop | 2015-12-16 16:46 | 日記・その他