hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop

<   2016年 03月 ( 3 )   > この月の画像一覧

謝る人謝らない人

  食品偽装に耐震偽装、不倫に覚醒剤に賭博…。この数年、TVの画面では頭を下げる人の映像ばかりだ。最近では清原の謝罪…ま、これは仕方ないか。ショーンKさんの涙の謝罪(関東のラジオ番組)は、なんか公開処刑みたいでヤな気分(ショーンさんが悪いって意味じゃなく、彼に謝罪させることで周りが納得するような雰囲気が嫌だってこと)。
 ベッキーの謝罪はさらに可哀想。おいゲスK、お前が土下座しろよ(大衆にではなく、ベッキーに。嫁とは勝手に揉めてろ)。


 とにかく謝っとけ、謝らせとけという風潮が強い中で、絶対に謝らない人がいた。
 「女子は2人以上子供を産め」発言の大阪市立茨田北中学校の寺井寿男校長だ。僕も、最初にこの記事を目にしたときは、「これは言い過ぎだろう」と思った。女性に対して失礼じゃないか、と。
 この先生、TVの取材に対して「ちゃんと全部読んでから文句を言え」と一括。で、ちゃんと全部(ではないけど、ネットなどで公開されている、問題発言を含むその前後の言葉)を読んでみた。
 間違ってないやん。正しいやん。ってか、人を産むことのできる女性に対しての、敬意と愛情に溢れている。そして「子供は男女が協力して育てるもの」と、男子にも発破をかけ、日本の将来を子供たちに託している。
 確かに、表現に雑なところもあるけれど、これは論文でもエッセイでもなく、先生から子供へ向けての言葉である。細部は置いといて、僕はこの校長の言葉に賛同する。


 校長の立派なところは、「自分の言ったことは間違っていない」と、きっぱり謝罪を拒否したところ。素敵だ。教育委員会といろいろすったもんだがあったりしたかもしれないが、メディアの取材に対し「ちゃんと読んでから言え、もっと勉強しろ」と一喝したのも立派。
 とにかく表向き頭を下げておいて、やり過ごしちゃおうという教育委員会の態度がこざかしく見える。その校長を、教育委員会は処分するというけれど、それは(誤解された)発言内容にかこつけて、「俺たち教委に逆らうと、こうなるんだゼ」という見せしめ的な意図があるのだろう(できないヤツほど、信念を持った人を煙たがるのだ)。
 発言全体を読めば、法にも道徳にも反したところは全くないことがわかる。「市民もマスコミも、上っ面だけで騒いでいるのだから、謝らせて処分すれば俺たちの責任は問われない」という教委の連中のあざとさと上から目線がよく見える。


 寺井校長、絶対に謝らないでくれ。教育者としての信念を貫いてくれ。…なんて僕が言わなくても、きっとこの人は貫いてくれると思う。


 発端は、保護者からのたれ込みだった。
 保護者が騒いだのはわかる。子供から「今日ね、学校で校長先生が、女の子は2人以上子供を産めって言ってたよ」なんて聞かされたら、そりゃ騒ぐよな。むしろこれまで、誰も騒がなかったことの方が不思議。
 ただ、そこで教委にたれ込むんじゃなくて、校長に抗議に行って、その場で議論すべきだったと思う。なんでも気に入らないものは上に苦情を言い、権威とか権力に頼って思い通りにしようという態度は、親として子供に見せるべきじゃない。
  そして発言者の校長と議論し、子供に「あれはこういう意味だってさ。君たちのことを大切に思って言ったことなんだよ」と、話してあげればいい。そうすれば、子供は「言葉って切り取り方次第で、全然違う意味にもなるんだ」ということを学ぶだろう。いい教育の機会じゃないか。


 子供たちに真意を伝えるために、保護者と議論を交わすことから、ずるい先生ならそこで逃げちゃうだろうけど、この校長だったらむしろ大歓迎すると思うよ。横柄だけど、本当は子供を大切に思っている頑固な爺さん(失礼)って、僕は好きだな。


 ところで、絶対に謝るべきなのに、まだ謝っていない人たちがいる。
「保育園落ちた、日本死ね!」の呟きに対して、「匿名だから本当かどうかわからない」とあっさり無視した安倍と、「出典を示せ」とヤジを飛ばした自民党の議員連中だ。
 多くの母親たちが抗議を始めて、事の重大さ(国家の一大事という意味ではなく、次の選挙に影響するという意味での重大さ)に気付き、慌てて対策を打ち上げ始めたが、彼女たちの真剣な怒りに対して、まともな調査もしないで無視しようとした無礼・非礼を、日本中の待機児童のママたちに謝罪するべきだ。


(ちなみに、あの呟きの言葉遣いを批判する向きもあるようだが、それは問題のすり替え。もし「保育園に落ちて失望しました。一億総活躍とおっしゃいますが…」なんて丁寧に書いていたら、話題にならなかったかもしれない。うまいCMのコピーほどに、これは秀逸の文章表現だと、僕は高く評価している)


 清原もショーンさんも、川谷もベッキーも石井竜也も、僕たちの税金で暮らしているわけじゃない。
 しかし政治家どもは、我々の税金で生活させていただいている身でありながら、その国民の悲痛な訴えを足蹴にするごとく無視し、選挙でまずいと思ったら謝りもしないで掌を返す。
 こいつらこそ公開処刑すべきだ。あ、暴力じゃなくて、次の選挙でね(笑)


e0359459_18152322.jpg
※ 気に入った場所からは絶対に動かない信念の猫「にゃあち・ネコアドル」先生


電楽街へ


[PR]
by horonekop | 2016-03-20 12:15 | 日記・その他

騙し騙され…

 ショーン・マクアドル・川上(以下、ショーン・K)さんの経歴詐称が話題になっている。TVはもちろん、ネットでも大騒ぎ。まぁ、よくあることだよね。
 TV界で彼のことをあまり極悪人のように言わないのは、騙されちゃったこちら(TV業界や視聴者)の照れくささもあるのだろう。それに、人を殺めたり世論を誘導したり、違法な金を稼いだりといった、「誰が見ても犯罪」と言えることはしていないから、「あー、騙されちゃった、てへへ」みたいな感情があっていい。


 同じ騙したヤツなら、ベッキーを騙して破滅に追いやったゲスの川谷(ゲス・K)の方が悪質だ。事務所の都合とか裏側でいろいろあるんだろうけど、ゲス・Kを放置しているメディアがショーン・Kを叩くわけにはいかないだろう。
 大騒ぎするほどのことじゃないと思う。
 ショーン・K の発言を誰もが信じたわけだし、取り立てて間違ったことは言ってなかったように思うし、時には正論も言ってたのだから、アメリカのいい大学を出ていたのかどうかではなく、その人がどう考えて何を言ったのかだけに注目すればいいだけの話。


 気になったのはネットニュース。ショーン・K が実は熊本出身の純然たる日本人で、しかも高卒であったことを取り上げ「(報道ステーションの)古館(伊知朗キャスター)は、熊本出身の高卒のおっさんに騙されていた」なんて堂々と書いているところがある。
 これはどうだろう? 熊本出身の高卒のおじさんたちに対して、めっちゃくちゃ失礼ではないか。熊本県民と高卒男性は、このニュースサイトに厳重抗議すべきだと思う。


 アメリカの有名大学出身で、都会育ちのイケメンハーフなら無批判で信じ、田舎の高卒オヤジの言うことなんか誰も信じないぜ…って言ってるんですよ、このサイトの記事は。
 とんでもないくらいの見識のなさ。高市の鬼ババにチクって、電波は使ってないから止められないにしても、JP-NICに圧力をかけてドメインとIPアドレスを剥奪するとか、やってもらいたいもんだ(というのは、もちろん嘘ですよ。どんなおバカな発言でも、表現の自由の下に認められるべきだから。ただ、こんなバカニュースを叩くのも自由)。


 関係ないけど、経済評論家の森永卓郎さんなど、「田舎出身の高卒のオタクのオヤジ」って触れ込みでTVに出れば、視聴者の抱く印象は全然違っていただろうなと思う。それでいてあの博識ぶりを披露すれば、「オタクオヤジのくせになかなかいいこと言うなぁ」とか、今よりも人気が出ていたかもしれない。
 あ、でも今は、ほとんどそっちのキャラになってますね(笑)。


 先のおバカニュースの記事の発想に基づけば、学習院大学を出た政治家とか、東大を出た官僚は、闇雲に無批判に信じてよいということになる。この発想がとんでもなく恐ろしい。
 「ショーン・Kに騙された、損したぁ!」という人は(TV業界や出版界の関係者を除けば)まずいないと思うが、いい大学を出た政治家や官僚には、もう我々国民は騙されっぱなし、損しっぱなしじゃないか。
 ニュースメディアなら、そっちの嘘の方をもっと追求しろ。


 ああいうニュースを見ている僕たちも、安易に乗せられないようにしたい。ショーン・Kの報を聞いて「やっぱり、おかしいと思ってたんだよ」「経済の知識が怪しかった」「話の中身がすかすかだった」などと、したり顔で事後評論する人たちが、ぞろぞろ出てきたようだ。
 後出しじゃんけんする前に、騙された自分を素直に恥じようね。
 中には「英語が変だったよなぁ」などと呟く人もいたみたいだが、残念ながら彼の英語(だけ?)はモノホンだそうだ。流暢で、ネイティブが聞いても違和感がないほど自然。かなり勉強したんだろうね。そこは評価していいんじゃないかな。
 ってか、英会話がすらすらできる人って、頭良さそうでかっこよく見えるのは、向こうにその意図がなくても、こちらが勝手に騙されてるようなもんだ。英語ぺらぺらのバカもいれば、日本語さえまともにしゃべれない聖人君子だっている。外面だけで判断するこちらの見識のなさを反省したい。


 一番見苦しいのは、みんなが騒いだら同じように騒ぎ、周囲が批判・糾弾し始めたら、なんか勢いだけで便乗して批判・糾弾する連中。
 みんなが同じ気分だから、大きな反論をされない安全圏にいて、自分とは関係のない第三者を叩くのは気持ちいいのだろうね。ああいう態度が、ヘドが出そうなほど気持ち悪い。それが、自由でいたい人を協調性がないと疎外し、平和主義者を非国民と呼ぶことにつながるわけだ。
 はみ出し者は最初からいるのではなく、僕たち集団が作ってしまうものなのだ。


 と、なんか違う話になったので、この辺で終わろうと思う。
 とにかく、所詮マスメディアなんて騙し騙されの世界。ましてTV業界なんて、整形疑惑、経歴詐称、年齢詐称に身長詐称、バストサイズ詐称、出身地詐称などなどなど、これまでにも数え切れないほどあった(佐藤かよさんなんて性別詐称だよ。あれには驚いたけど、誰も文句を言わないやん)。
 そのたびに、眉間にしわを寄せていたわけでもない。騙すのがそちらの自由なら、信じる信じないはこちらの勝手、でいいじゃないか。天下のNHKが一首相の思惑で、放送内容から人事まで好き勝手にできちゃうこの国だ。どうせ当てにならないTVじゃないか。騒ぐほどのことはない。


 TVで騒ぐくらいなら、高校の教科書検定の日和見の方を騒ぐべきだ。
 評論家が偽物であっても本物であっても、この国の将来に大きな影響は出ない。が、人を育てていくための教科書がこれでは、この国は滅びるかもしれない。
 経歴詐称は気にしない。歴史詐称(じゃなくて、歪曲)は大問題、なのだ。


e0359459_18152298.jpg


※ ネコ缶評論家の「にゃあち・ネコアドル・長谷川」先生(整形済み)


[PR]
by horonekop | 2016-03-19 11:34 | 日記・その他

 レンタルビデオ店で邦画の「ね」の棚を覗いたら、なんと「猫侍」を筆頭に「ねこ~」というタイトルの映画がぎっしり並んでいた。SNSでも猫の写真や動画がいっぱい取り上げられているし、「空前の猫ブーム」という噂は事実のようだ。
 でもね、僕の中ではずーーーっと以前から猫ブームなわけで、「なにをいまさら」なのである。従順でお利口なわんちゃんを差し置いて、なぜ今、自分勝手で気分屋でツンデレの猫が流行中なのか? このブームの先はどうなるのか? なんて疑問は全く抱くことなく「だって、ねこちゃんはかわいいんだもーん」というのが、正当な猫好きの気分なのである。


 さて、ここでちょいと「猫」を「写真」(でもなんでも、あなたの好きなもの)に置き換えてみる。
 今、空前の自撮りブームである。セルフポートレートは、数年前まではガーリー(girly)フォトの一ジャンルだった。女の子が遊びでやること、くらいに思っていた人も少なくなかっただろう(なぜ女子は自分を撮るのか?については、長くなるので別の機会に書く)。
 それが今では自撮り棒が売れ、カップルどころか男子だけでも自分を撮影する風潮が強くなってきた。


 「カメラ女子」という言葉が巷に流れたのは十年以上前だと記憶する。女子高生が一眼レフをぶら下げていたり、OLがバッグからコンパクトカメラを取り出したり…という風景をよく目にしたものだった。 その時期と、携帯電話にカメラがついて「写メ」という言葉が流行した時期とは重なっている。蜷川実花らがメディアに登場し始めた2000年代初頭の頃である。


 では、男の子はいつ頃から自分を撮るようになったのか? iPhone登場をきっかけとしたスマホブームと、FacebookなどのSNSの隆盛が重なった頃からだ。女子が何気ない日常の自分を公開するのに対して、男子のそれは一時期社会問題となったバイト先での顰蹙写真(コンビニのアイスの冷蔵庫に裸で入った写真とか)に代表されるように、多聞に(幼稚ではあるが)「自己顕示」の意図が強い。
 宮台慎司の言う「(社会的)認証の儀式」を正しく通過しなかった男の子たちが、自己の存在を主張する手段として、この「自撮り」を利用したというわけだ。そう見ると、女子に対して男子のそれは、切羽詰まった感が痛々しくも感じられる。


 とまあ、こんな具合に考えていくと、写真をきっかけに社会のいろいろなことが見えてくる。が、写真に携わっている多くの人には、あまり関心がないようだ。少なくとも僕の周囲では、そうである。
 なぜか? 「だって、写真を撮っていたら楽しいんだもーーん」「だって写真が好きなんだもーーん」という声が聞こえてくる。何のことはない、先の猫好きが猫ブームを深く考えないのと同じで、写真の好きな人は写真の周辺にあまり関心を抱かないのだ。


 大学で、写真と社会に関する考察をまとめた内容で、10年近く講義を続けてきたが、デザイン学科や映像学科の学生の方が食いつきがよかった。その理由が何となくわかる。
 大学の偉い先生方も、「芸術」とか「自己表現」、あるいは「絵画との関係」「美術の歴史」といったテーマなら興味を抱く(というか、講義のネタにしたがる)けれど、写真という手段を手がかりに自分たちの生きる社会を読み解く、あるいは逆に社会生活という側面から写真という表現手法を眺める、といった行為にはあまり関心を示さない。その理由も、わかった。


 告白しよう。僕は、猫ほどには写真を好きになれない(なんちゅう比較だ)。
 絵を描いていた(今も描いている)。子供の頃は本気で漫画家に憧れた。音楽もやった。朝日放送のオーディションでは、自作の曲のためのジャケットデザインを褒めてもらい、番組のタイトルバックに使ってもらった(どうせなら、曲を使って欲しかったが…)。
 写真も、そういった楽しみの中の1つ(one of them)であって、「それこそがすべて」ではない。だから、他の表現手法と共に並べて、客観的に眺めてしまう。それで最近(でもないが)やっと気付いたのは、僕がいちばん興味を抱いているのは、絵や写真や動画や音楽、テレビや雑誌やネットや…そんな諸々の表現と伝達手段がひしめく「(規約によって統制された)人間の集合=社会」そのものなのだ。


 だから、今後もべったりと寄り添わないように、少しの距離を置きつつ、写真という表現手法を眺めていこうと思っている。そうすることによって、写真というメディアが社会のどこに位置づけられ、どこに向かって変化しつつあるのかが、見えてくるのだと信じている。
 それはただ単に、僕自身が飽きっぽく、忍耐強くなく、あれもこれもやってみたいただの物好きだということに起因するのだが、それによってまた、この距離感は僕にしか持ち得ないものだとも思っている。
 毎日フランス料理ばかりだと(実体験はないけど)、あの飲み飽きた「おかんの味噌汁」が恋しくなるものだ。それでまた日本食の後フランスに戻れればいいのだけれど、僕の場合はベトナム料理に行ってしまったりする訳なんだよね(笑) で、なんの喩えかよくわからないが、要するに戻るところを1つに決めてしまわないことで、世界を構成するいろいろなものの特色や互いの関係が見えるようになるって話なのだ。
 教育で一番気になっているのは、教える側が好きなほどに、教わる側はそれほど好きでもないってことがある、ということ。教える側が、そのことに鈍感すぎるってこと。


 教え子で、最終的に写真の仕事をしている人はたくさんいるけれども、みんながみんな「絶対にフォトグラファーになるんだ!」と、意気込んでいたわけではない。少なくとも、僕たちが小学生の頃「何が何でも手塚治虫みたいになるんだ」と、必死に取り組んでいたほどには情熱的でないと感じる(中学の時には、仲間と赤塚不二夫さんの仕事場や山上たつひこさん家に押しかけたりしたものだ)。
 で、写真の先生である。自分が写真を好きなものだから、学生も同じように写真が好きだと想定して「こうだよ、わかるよね?」などと語りかけても、「ふーん」とか「へぇ」という反応が返ってきたりする。自分と彼らの意識のギャップに気付かないまま進めてしまうから、すれ違いが大きく広がるばかりなのだ。
 だからといって、「お前らも写真を好きになれ!」とか「この素晴らしさがわからないのか?!」などと声を荒らげても無意味だ。


 今、写真を学びにやってくる学生たちの中で「なにがなんでもフォトグラファーになりたい」と、強い意思を抱いている者がどれくらいいるだろうか? 仮にいたとしても、その意志の強さはいかばかりか? 先生方は今一度考えてみるべきだろう。
 僕は高校生にも教えているが、昨年、デザインセンスもよく、写真もそれなりに上手に撮影できる女子が、進学についてこんなことを言った。「写真は楽しいけれど、趣味でいいんです」
 スマホで写真を撮り、SNSにアップしている若者が多い。昔に比べれば、膨大な増え方だ。しかし、女子の多くは身近になった写真を日常の楽しみと捉え、男子の多くはゲーム業界に進みたいと情熱を燃やしているのが現状だ。
 ゲームデザインやゲームプログラミングと今の社会について、写真と比較をしないまでも、考察したことのある教員はどれくらいいるだろう? 僕らは怠けすぎている(と、怠け者の僕が言うのもナンだけど)。


 空前の猫ブーム、空前の自撮りブーム…といった話をしたけれど、かつて(1980年代)は空前の写真ブームがあった。
 その頃に写真を学んだ人たちが、今はいい大人になって写真を教えていたりする。そこに誤謬の因があるのかな、などと思ってしまう。
 僕は映画が大好きなので、映画の楽しさを知らない人に出会うと「ああもったいない」と思ってしまう。しかし、だからといって「可哀想な君たちに、映画のすばらしさを教えてあげよう」などとは思わない。なぜ映画が関心の対象にならないのかを考えていくと、映画がプロパガンダに利用された時代のことなどを思い浮かべる。そこから学べることはたくさんある。
 写真の好きな先生たちは、写真がよくわからない若者たちに「教えてやろう」などと思っちゃったりしちゃったりしているのではなかろうか? だとすると、ダメである。否定する者からこそ学べ、と言いたい。


 あるものをあまりに好きすぎると、周りが見えなくなってしまう。自重したい。
 あ、僕の場合は写真じゃなくて「猫」なんだけど(笑) だから猫好きな自分に関しては、あまり自重する気はありません。猫に対しては、べったり寄り添ってかまわないのだ。うん。


 ってことで、また。


e0359459_18152239.jpg


電楽街へ


[PR]
by horonekop | 2016-03-05 13:39 | 日記・その他