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hiro.Hasegawaの気紛れブログ


by hirop

白土三平先生

 2021年に他界された漫画家として、白土三平先生を忘れてはならない。大晦日に更新したうみねこ通信では、僕と関わりのあった大先生として古谷先生とさいとう先生のことを書いたが、残念ながら白土先生とは面識がないままだった。
 面識はないが、作品には子供のころから触れている。少年漫画誌で連載されていた「サスケ」「ワタリ」そして「カムイ外伝」…忍者ブーム真っ只中の時代だ(話は横道にそれるが、藤子不二雄先生の「オバケのQ太郎」の第1話で、正ちゃんは友達と忍者ごっこをしていてオバケの卵を見つけ、そこからQ太郎が出てくる。当時の男の子の遊びの定番が忍者ごっこだったのだ)。
 白土先生の忍者ものが他の漫画と違うのは、忍者の使う道具や術などを文字で解説してくれれていたこと。分身の術は視覚の残像を利用すると説明され、「サスケ」では容姿の似たいとこ3人が加わることで、更に相手を困惑させる…とか、子供ながらに科学的な説明に納得してしまった。

 小学校低学年の頃、近所の理髪店では順番待ちの椅子の横の本棚に、貸本漫画誌が置いてあった。漫画雑誌はまだ月刊誌が主流の時代。貸本漫画とは、劇画を中心とした少し大人向けの雑誌だった(集団就職で社会人となった中卒の工場労働者らが主な対象読者だったようだ)。僕は月一のペースで理髪店に行っては、貸本漫画誌を借りて読んでいた。
 その影響で貸本劇画に触れる機会が増え、少し大人向けのストーリー、文字の多い解説などに馴染んでいた。日の丸文庫、東京トップ社、ひばり書房、江波譲二、南波健二、K元美津…同世代の子どもたちには馴染みのない出版社と漫画家である。
 そんなわけで、子供向けの丸い線と漢字にふりがなの振ってあるメジャーの漫画より、硬い線、リアルな描写、難しい台詞回しなどが僕の原初的な漫画体験にある。
 だから、当時子供向け漫画では珍しい白土先生の忍者ものに、案外すんなり入っていけたのかもしれない。

 それに、当時はなんとなくしか理解できていなかったが、白土先生の歴史観…特に差別されてきた人々の描き方を、感傷的、情緒的でなく描かれていることが印象的だった。
 サスケ、ワタリ、カムイ外伝など多くの白土作品に登場する忍者「四貫目」の名前の由来など、かっこいいだけの忍者漫画にはない淡々とした解説は今でも覚えている。
 後に読んだ「カムイ伝」では、歴史観はより鮮明に伝わった(カムイ伝は、古本市場で全巻1万円で購入した)。
 白土作品を手伝った、というより共同執筆した弟の岡本鉄二先生も、白土先生の4日後に逝去された。お二方のご冥福をお祈ります。

 白土先生とは残念ながら面識がなかったが、先生の名作に登場する人物を誌名に頂いた雑誌「ガロ」は高校~大学時代に愛読していて、「猟奇王」の作者川崎ゆきお先生とはお話したことがある(川崎先生はご存命)。

 流れとは直接関係ないので、このお話はまた別の機会に。

# by horonekop | 2022-01-09 18:13 | 漫画劇画

巨匠旅立つ

 今年(2021年)の秋から冬にかけて、漫画・劇画の歴史に名を刻んだ巨匠たちの訃報が相次いだ。さいとうたかを先生、白土三平先生、古谷三敏先生…。いずれも漫画劇画史に名を刻む巨匠である。

 古谷三敏先生には、中学生のときにフジオプロでお会いした。友人と二人で少年サンデー編集を訪問した翌日、赤塚不二夫先生にお会いしたくてフジオプロを訪れた。最初に応対してくれたのは、よれよれのシャツを着た髭面の男性。(アシスタントの方かな?)と思った。赤塚先生はまだ出社前で、長谷邦夫先生に色々お話を伺った。
 長谷先生は作家の筒井康隆先生とSF同人の仲間で、筒井先生の小説「アフリカの爆弾」を漫画にした作品を少年サンデー別冊に発表された頃だと思う。
 筒井先生の「東海道戦争」を原作にした漫画を、単行本で出版されると聞いた。漫画のあと原作も読み、以降、筒井ワールドにハマってしまった。
 その後、赤塚先生と古谷先生にサインを頂戴した。古谷先生は名作・怪作「ダメおやじ」を連載する前で、少年サンデーの背表紙にカラーのコマ漫画を描かれていた時期。名前もそれほど有名ではなかった頃である。
 にこやかに丁寧に、イラストを描きサインを入れてくださった。温和な表情を今でも覚えている。
 ちなみに、最初に応対してくださったよれよれシャツの男性、後でわかったことだが、「高校生無頼控」で名を馳せる前の芳谷圭児先生だった(失礼しました!)。
巨匠旅立つ_e0359459_15442652.jpg
 中3から高校にかけて、「さいといたかを劇画ゼミナール」という通信教育で学んだ。よくあるマンガ教室と違い、シナリオやコマ割りなどをしっかり見て添削、アドバイスしてくれた。
 テキストはA3判のアート紙という贅沢な造りで、原稿に描かれたペンの跡がよく分かる。物語の展開やコマの運び方を、丁寧にチェックしてくれる。スタッフが撮影した街の写真を元に風景を描く課題や、動物デッサンの見本、ネーム(台詞)の配置などに使う写真植字の割付シートなども役立った。
 なにより、頭の中で思いついたお話を絵にするのではなく、どうやって伝えろか、どのように見せるかを、シナリオや絵コンテを吟味し、映画のカメラワークを踏まえて、見せ方、語り方を検討することを学べた。
 ネコやうさぎが出てくる漫画を描いたりしたが、実は僕のルーツは劇画なのである。

# by horonekop | 2021-12-31 16:40 | 漫画劇画
 映画俳優・宍戸錠さんの訃報に接し、昔、雑誌のコラムで宍戸さんに振れたことがあったのでその記事を再掲載したい。
 お読みいただければおわかりだが、元々は米俳優・監督のクリント・イーストウッド氏についてのコラムである。
 1996年の執筆で出版社(エーアイ出版)の許可を得てWeb(「うみねこ通信」の旧シリーズ)で「CD-ROM Showcase Returns」に再掲載していたものの再再掲載である。
 このコラムは当時流行だったCD-ROMの紹介記事なのだが、編集者と「ただ対象を紹介するだけではなく、レンタルビデオ店の店長と映画談義を末うようなノリで、雑学やうんちくをちりばめた読み物に」という方向で始めたものだった。
 取り上げるネタも、映画から小説、TIME LIFE(英語のニュース雑誌)からボブ・ディランまで種種雑多に無節操、いかにも「僕向き」の企画だったと思う。
 なお、内容は当時のままなので、掲載時の1996眼㎜時点での内容となっている。

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CD-ROM Showcase
"EASTWOOD"
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 男の子はピストルが好きだ。子供の頃の遊びと言えば、白黒テレビで見たヒーローたちの真似。少年ジェット、七色仮面に月光仮面…みんなピストルを持っていた(少年ジェットの武器は、ガス銃と「ウーヤーター」のミラクル・ボイスだったが…)。
 それに、何と言っても楽しかったのは西部劇ごっこだ。ララミー牧場、ライフルマン、ローハイド…。小さい頃は紐付きコルクのブリキの鉄砲。少し大きくなると銀玉鉄砲が僕たちの「武器」だった。今のエアガンのようなパワーはなく、当たっても痛くない。至って安全な「いかにも玩具」だった。
 ピストルを握れば、僕たちはヒーローになれた。神社の木陰に、あるいは路地の奥の洋服直しの看板の陰に身を潜め、息を殺して「敵」のやってくるのを待ち伏せていた。
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 子供の頃の銀玉鉄砲に抱いた「銃」への憧れを、そのままモデルガンやエアガンにスライドさせてしまった大人は多い(かく言う僕もその一人だ)。だから、まだモデルガンなんていう高価なおもちゃになかなか手の出せなかった学生の頃、スクリーンで見たハリー・キャラハン刑事のマグナムぶっ放しの迫力には、思わずチビリそうになったものだ。
 クリント・イーストウッドと言えば、そりゃあもう誰が何と言っても「ダーティーハリー」('71年・米)なのだ。とにかく、ハンバーガーかじりながらあのやたらでっかい44マグナム(日本では「マグナム44」と呼ばれているが、「.44MAGNUM」が正しい)をぶっ放すんだから、もうまいってしまった。
 ハリー・キャラハンのガニ股スタイルは、イーストウッドがこの映画のために実際に44マグナムを装填したS&W(スミス&ウェッソン)M29を何度も撃ってみて、「足を開き、腰を落とす」という姿勢を学んだんだそうな。
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 イーストウッドは、1930年アメリカはカリフォルニア州の生まれ。ってぇことは、当年とって66歳。ダーティー・ハリーの第1作目が25年前だから、当時既に41歳だった訳だ。
 彼はこの映画で一躍大スターへの道を歩み始め、監督、プロデューサーなども務めて、遂に1992年、「許されざるもの」でアカデミー作品賞、監督賞を受賞…と、大スターのお決まりコースを歩んでいる。
 「許されざるもの」は、年老いた賞金稼ぎのお話だ。どこまで行ってもピストルを離せ ないんだな、このヒトは…。だから、「マディソン郡の橋」で「いいおじさん」になっちまった彼を見るのは、牙を抜かれた自分を見るようで、「昔少年」たちには辛かったのだよ。
 因みに、'92年のアカデミー助演男優賞は、「許されざるもの」で保安官役を演じたジーン・ハックマン(イーストウッドと同い齢。最近ではクリムゾン・タイドでデンゼル・ワシントンと共演して渋いところを見せた)だった。
 「大スターのお決まりコース」と書いたが、イーストウッドがそんじょそこらの大スターと違うところは、'86年から2年間、カリフォルニア州・カーメル市の市長を務めたっていうところだ。「俳優から政治家」といえばドナルド・レーガン元大統領を思い出すが、政治家としての手腕はともかく、僕らのハリー・キャラハン刑事はあんなDAICON-ACTORじゃない。
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 昔少年にとってイーストウッドはハリー・キャラハンであり、いつもピストルを握っている「やんちゃ坊主」なのだ。子供の頃僕達が憧れたカウ・ボーイの世界。イーストウッドは、テレビシリーズ「ローハイド」でイェーツの役をやっていた。その後彼はイタリアに渡り、セルジオ・レオーネ監督のマカロニ・ウェスタン(正しくは「スパゲティ・ウェスタン(Spaghetti Western)」)「荒野の用心棒」('64年。イタリア)に主演する。エンニオ・モリコーネの、あの短調のテーマ音楽が耳に残る。
 この映画で、イーストウッドは世界的映画俳優としての第一歩を踏み出す。この映画、黒沢明監督・三船敏郎主演の映画「用心棒」のウェスタン版だっていうことは、知ってる人も多いだろう。セルジオ・レオーネは、大のクロサワ・ファンだった。町の通りに吹き抜ける砂嵐の中から人影が表れるシーンなんて、「そのまんま」なのだ。
 日本の正統派監督・BIGクロサワからイメージを「いただいて」作ったのがマカロニ・ウェスタンなら、さらにそれを「いただきます」してできたのが日活の「無国籍アクション」だ(「ウドン・ウェスタン」なんて言われたこともあった)。ほれ、例の小林旭主演の「渡り鳥シリーズ」だよ。
 舞台は日本の炭坑町だったりするのに、なぜか主人公はギターを背負って馬にまたがり、振り向きざまに拳銃の抜き撃ちをやったりなんかする。イーストウッド主演の「夕陽のガンマン」('66年・イタリア)で、ライバルの賞金稼ぎ役をやったリー・バン・クリフなんか、どうしても「エースのジョー」こと宍戸錠を連想してしまう。
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 渡り鳥シリーズで宍戸錠の演じた殺し屋の役名は、みんな「エースのジョー」だと思っている人も多いようだが、実は第1作(「南国土佐を後にして」を第1作とする見方もあり、その場合は第2作目となる)の「ギターを持った渡り鳥」で初登場したときの役名は「ジョージ」、続いて「ハジキの哲」「ハジキの政」「ハートの政」…と、様々だ。
 「エースのジョー」という名前は、渡り鳥シリーズを撮った斉藤武市監督の作品で、宍戸錠主演の「流れ者」('62年・日本)の中での役名なのだ。宍戸の作しか使われていない名前なのに、なぜかていちゃくしてしまった。イメージにぴったりだったんだろうね。
 「エースのジョー」こと宍戸の扮する殺し屋は、様々な日活アクション映画の中でヒーローたちと戦ってきた。って訳で、宍戸=エースのジョーが懐かしのヒーローたちを訪ね歩く…という「アゲイン」って映画を、'84年に矢作俊彦さん(「気分はもう戦争」を書いた人)が作っている。
 日活無国籍アクション映画の荒唐無稽な雰囲気は確かにマカロニなのだが、田舎町に流れてきたヒーローが悪者をやっつけ、またどこへともなく去っていく…という単純な筋立ては、「シェーン」('53)に代表されるアメリカ製正統派西部劇のノリだ。この「ごった煮」感、設定の無責任さが、清く正しい任侠の世界を描く東映やくざ路線と対照的で、「いかにも日活」なのであるよ。
 なお、この底抜けに明るい「渡り鳥」シリーズと続編の「流れ者」シリーズの原作者は、先頃めでたく国会議員生活50周年をお迎えになった、原健三郎先生である。この原先生も、なかなかに「やんちゃ」なお人だ。
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 おっと、イーストウッドの話だった。「ダーティーハリー」冒頭のハンバーガーを食いながらマグナムを撃つシーン、その背景の映画館に、彼の初監督作品「恐怖のメロディ」('71年・米)の看板がかかっているという、ちょっと楽しい仕掛けがあるのをご存知だろうか? 暇な人は、ビデオで確かめてみよう。
 「恐怖のメロディ」は、イーストウッドの初監督作品だ。ダーティー・ハリーの1つ前の作品にあたる。
 ローハイドの監督の一人でもあったテッド・ポスト監督が、イタリアで成功したイーストウッドをアメリカに連れ戻し、「奴らを高く吊るせ」('66年・米)を撮った。その後イーストウッドはかのドン・シーゲル監督と出会い、「マンハッタン無宿」('68年・米)、そして「恐怖のメロディ」を経てダーティー・ハリーにたどり着くのだ。
 「マンハッタン無宿」も、あちこちに影響を与えた映画だ。アリゾナ州の田舎町から犯人を追ってニューヨークへやってきたイーストウッド扮する保安官補が、オートバイでビル街を走りまわるという痛快アクションだ。ダーティー・ハリーの土台とも言える。
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 田舎者の警官が都会で大暴れ…という設定、田舎出身の警部がニューヨークで馬に乗って犯人を追いかける…という楽しいTVシリーズ「警部マクロード」(日本での放送はNHK)が「いただいて」いる。
 日本では「刑事コロンボ」の方が人気があったので、知っている人は少ないだろう。主人公のマクロード警部を演じたのは、スティーブン・スピルバーグ監督が25歳のときに撮ったTVドラマ「激突」(Duel)」('71年・米:日本では劇場映画として劇場公開された)で主役を演じたデニス・ウィーバーだ。それに、なんと日本語の吹き替えがエースのジョーこと宍戸錠だっていうのも、取って付けたような偶然だ。
 「マンハッタン無宿」でイーストウッドが演じた保安官補クーガンは、「テキサス」というニックネームで呼ばれていた。そうくると、思い出さずにはいられないのが、日本テレビの名作刑事ドラマ「太陽に吠えろ!」だ。
 このシリーズは、1年ごとに新人刑事が殉職するという酷な設定になっていた。最初に殉職したのは萩原健一扮する「マカロニ」。勝野洋扮する三上刑事のニックネームはそのまま「テキサス」だった(松田優作のジーパンも懐かしいが、話の脈絡が違うので割愛しよう…)。
 「太陽に吠えろ!」が影響を受けたのはマカロニ・ウェスタンではなく、マカロニから帰ってきたイーストウッドの登場する刑事モノの方だろうが、「太陽」なんて言葉が付いてること自体、西部劇を意識しているのはモロ判りだ。
 「太陽に吠えろ!」で七曲署刑事課のボスこと藤堂俊介を演じていたのは、故・石原裕次郎だった。石原はタフガイ、渡り鳥・小林旭はマイトガイのニックネームで、日活アクション映画の双璧を成していた。たどっていくと、面白い偶然がいっぱいある。が、どれも「昔やんちゃ少年」の当然のなりゆきだって思えば、妙に納得できてしまう。
                    *
 おっと、また日活に戻ってしまった…。最近のイーストウッドと言えば、「パーフェクト・ワールド」('93年・米)と「マディソン郡の橋」('95年・米)が記憶に新しい。
 パーフェクト・ワールドではケビン・コスナー扮する脱走囚ブッチを追いかける警察署長ガーネットの役で、これはもうかつてのやんちゃ保安官が齢取った…っていうイメージだ。
 「マディソン郡…」の方は、もう話がスカスカで、共演のメリル・ストリープもクレイマー・クレイマーのときほど輝いてなかったし…、年老いたイーストウッドの渋味に何だか寂しいものを感じてしまったのは、僕だけではないだろう。
 イーストウッドには、年老いたイェーツ、往年のハリー・キャラハンでいて欲しい。僕たち「昔少年」もまた、物判りのいい爺さんになることを拒絶したいものだ。銀玉鉄砲のグリップを握って、見えない「敵」に照準を合わせてみよう。
                                  
※参考文献
 「きょうのシネマは/シネ・スポット三百六十五夜」山田宏一/平凡社・刊
 「日活アクションの華麗な世界」渡辺武信/未来社・刊

# by horonekop | 2020-01-23 05:55 | 映画

自分は痛くない暴力

いつものように、思いつきの殴り書きです。ただし、感情に任せて書いているのではありません。

 昔、20代の頃、知り合いにNさんという少し年上の男性がいた。真面目な人だったが、悪い癖があった。すぐに人を殴るのだ。友人曰く「いい奴なんだけどなぁ…」ということだ。
 話し下手で込み入った話が苦手なため、言い合いになると手が出てしまう。道路を渡ろうとした彼に注意した警察官に手を出し、逮捕されたこともある。
 でも根は真面目で、いい人なのだ。

 彼のことを思い出したのは、配偶者や恋人に暴力を奮った有名人の話題を、TVでやっていたから。暴力は肯定しない。ましてや女性に暴力なんてサイテーだし、この場合は金銭問題なども絡んでいて、到底弁護する気にはなれない。
 ただ、世間の声が「暴力は悪い』一辺倒になっていることが、僕としてはちょっとと違和感なのだ。

 暴力はいけな。これは大前提だ。なのだが、先のNさんのように、理屈が通じないで一方的に言葉で責め立てられ、つい手が出てしまう人もいる。
 手を出せば、当然ペナルティーを追う。殴った自分の手も痛い。
 しかし世の中には、自分は一切手を傷めないで、他者にダメージを負わせる奴がいる。言葉による暴力や陰湿な嫌がらせだ。
 温和な態度で、表面は笑顔を繕いつつ、見えないところで陰湿な危害を加える…モラハラ、パワハラ人間である。

 暴力は「つい、咄嗟に手が出た」という場合もあるが、嫌がらせは「つい、咄嗟にやってしまった」という言い訳ができない。継続的な悪意と場合によっては計画的な意図が根底に存在する。
 「誰が誰に」ということは今の段階ではあえて言わないが、例えば誰かの著書を意図的に学生に見えないよう隠すとか、誰かが全員に問題提起した文書を捨てる(闇に葬る)よう事務レベルに指示する、仕事を頼んでおきながら、その成果を捨てて同じ仕事を別の人間に頼む(意図的な無視)、特定の教員の捏造した悪口を学生に言いふらしたり、上司に嘘の告げ口をする…などなどなど。
 それこそ、怒りで手が出てもおかしくないくらいのことを、被害者たちは冷静な態度で受け止め、学生に被害が及ばないよう対処している(してきた)。

 もう何年も、続いている。今ではこういう嫌がらせも「環境」になってしまったかのようだ。
 こういうことを書くと、「XX先生は学校の悪口を言いふらしてますよ」と、告げ口されたりする(実際にやられた)。今回の件なら、「長谷川先生はネットで暴力を肯定する書き込みをしてますよ」ってな感じだろう(防衛のために先手を打っておく。放っておけば実際に告げ口とされそうなので、「暴力を肯定しない」ことを再度名言)。
 繰り返すが、暴力は絶対にいけない。
 しかし、暴力より悪質な、自分の手を一切汚さず、見えないところで攻撃をする悪辣な行為が存在する。僕にとっては、それに対する怒りのほうが遥かに大きい。
 さらに恐ろしいのは、当事者(加害者と被害者)だけではなく、一見無縁に思える第三者(=学生)に最終的な害を与えてしまうこと、そのことを加害者たちは知っているはずなのに、見えないことにしている(または本当に学生のことを考えていない)点だ。

 「暴力」ということで、もうひとり思い出した人がいる。僕より10歳くらい年上のWさんという男性だ。
 その人の父親はヤサグレの任侠の人(反社会組織の人ではない)で、本人は普通の会社員。若い頃は喧嘩などしていたのだろうが、ねはとても真面目な人である。
 いつか、その人が「暴力はあかん。あかんけどしゃあない(仕方ない)ときもある。相手を殴ったら、自分も痛いんや。殴った方に、相手の痛さがわかるねん」と言ったことがある。続けて、その人の息子が中学で陰湿ないじめに遭っていたことを打ち明けてくれた。
 「暴力より、もっと汚いことがある」と、悔しそうに。

 お願いです、保身ばかり考え、他者を陥れることに身をやつしている皆さん、どうか学生たちを巻き込まないでください。
 狭い組織の中で小さな権力を奮っても、世間は見ています。僕の目的はあなた方に仕返しすることではなく、これ以上無垢な学生たちを巻き込まみたくないということです。
 僕は、実社会を殆ど知らないあなた方と違い、大人たちの汚いやり方をたくさん見てきました。純粋な学問の世界では、ざわついた世間のような下衆な諍いはなく、もっと知的で人間的な競争だけがあると思っていました。
 しかし気がつけば、今までで一番醜い競争(狂騒というべきか?)の世界にたどりついってしまったようです。
 次代を担う若者たちに、この毒気を撒き散らさないないでください。本当に、心からお願いします。

# by horonekop | 2019-01-14 15:27 | 日記・その他
 前回の投稿が1月だったから、実に10箇月ぶり! ほんとに「気まぐれ」だなぁ、と我ながら呆れる。
 世の中には実にマメな人がいて、日々ブログを更新し続けていらっしゃったりする。その熱意、ひたすら感心。
 僕など、月一回の月刊誌のコラムでさえ、たらたらと取り組んで気合の入らない時があった(さすがに、締切に間に合わなくて連載を落としたということはなかったけど)。
 こういうことって、習慣化するのが一番いい。短くてもいいから必ず毎日、日記をつけるようにブログを書く癖を付ければ、僕のような「どーでもいい」文章でも、とりあえずの存在感みたいなものが生まれるかもしれない。
 「継続は力なり」とよく言われるように、ずっと続けていくことで、その行為に「質量」ってヤツがくっついてくるのだ。
 ところが僕ったら、継続という行為が大の苦手。絵でも写真でも、プログラミングでも何でもかんでも、面白いと思ったことには集中して取り組むのだけれど、マスターした気になればさっさと飽きてしまう。傍から見れば、集中しているときは周囲の声が聞こえないマイペース状態で、飽きちゃったら全く集中力を発揮していない呆けた状態なわけだから、もしこんなな奴が生徒にいれば、間違いなく見放しているだろう。
 でもいいのだ。「だって猫だもーん♪」

 なかな続きを書かなった(書けなかった)理由は、実のところ単なる「気紛れ」だけではない。
 元になった調査結果が、2011年までにある程度の分量蓄積されていることは、前回の拙文中に書いた。ただ、その後の継続調査が困難になり、尻切れのままだったので、確実な「傾向」を示す論拠になりえないという不安があった。
 なので形にすることを諦めかけたこともあったのだが、大学の講義再開を機に仮説のままコラムのような形で提示してみることにた。
 論文という形は採れな。継続した調査結果が存在しないのだから仕方がない。
 ただ「なぜ継続した調査ができなかったのか」ということの理由は、明らかにしておかねばならない。このt調査研究に興味を持った人に受け継いでもらえれば良いと思っているのだが、そのためにも「空白期間の存在」について知ってもららう必要がある。
 ただし、本論とはいささか異なる話題となるため、ここではあえてその辺の事情に触れないでおく。とりあえず、元になった調査結果の存在することだけ抑えた上で、まずは本題の続きから。

 さて、前回の「元祖プリクラ世代の逆襲」で、この元祖プリクラ世代こそが、写真に始まる映像文化のあり方を大きく変えちゃった世代だと書いた。
 この世代はミレニアル世代とも言われ、社会システムが大きな変革を遂げ、それに伴って文化的な部分にまで影響を受けた世代である。もちろんその次代に生きた人すべてが政治、経済や文化の影響を受けたわけだが、既に大人になった人々とは違い、「子供の時からそうだった世代」は「それ以前」の事情を知らないという意味で、あらゆる状況~ごく自然な受け止め方まど、環境に対する反応の全てにおいて「だってそうなんだもーん」という立場なのである。

 1980年頃と言えば、社会の至るところにコンピュータが進出し始めた「OA化」の時代であり、バブル経済で世の中が浮かれ始める前段階のような(金利が徐々に上がり始め、日本が米国に次ぐ経済大国となった)時代である。
※ OAとはOffice Automationの頭文字で、経理や人事などの事務分野でパソコンを使った合理化、効率化を行うこと。

 写真秘術では、コンパクトカメラがブームになり、女性が手軽に写真を撮れるようなった。コニカは「ピッカリコニカ」こと「Konica C-35」、ミノルタは「α7000」というオートフォーカス機構のカメラを登場させ、モータードライブや自動露出と相まって、写真を撮ることがどんどん楽になっていった時代である。
 それまで、写真撮影は主に男性の趣味だった。写真というより、カメラという道具が男性向けだったのだ。難しい機械を操り、露出を測りピントを合わせ…という写真撮影のための一連の操作は半ば儀式化されており、自動車の運転と同じように「機械を操っている」という満足感を与える。
 この機械を操ることで得られる満足感は、一般に男性固有のものである(征服欲とも通じる)。写真という「一種の絵画」を取得することより、そのための一連の手続き=機械の操作を重視するという「プロセス指向」は、勝敗や点数を競う以上に結果に至るまでの時系列的な「流れ」に意味を見出す、男性的な脳の活動である。
 一方女性の発想は「リザルト(結果)指向」的である。《どのようにして》という手順や筋道より、結果、勝った/負けたということを重視しがちだ。
 だから。結果としての「絵」を取得するまでに「様々な操作」という面倒なプロセスを経なければならなかった旧来の写真は、女性には回りくどかったのだ。
 ところが、カメラは技術の進歩によってどんどん自動化され、男性の感性に訴える機械操作の醍醐味は薄れ、レリーズボタンを押すだけで結果の絵が得られる、 簡便な道具になった。
 1960~70年台に自動露出、続いて自動焦点(オートフォーカシング)が1980年代と、続けざまにカメラの自動化が極まった時代である。

 女性の社会進出が著しくなった1970年代、女性同士での旅行がブームとなった。それを受ける形でコンパクトカメラが売れ、さらに撮影の自動化が後押しする格好で、旅行にコンパクトカメラを携える女性の姿が目立ち始めたのが1980年だ。
 男は「カメラを操作する」行為に興味を示すので、撮影した後の写真=プリントされた写真にはあまり興味を示さない。かくて、整理されていないままのプリントやプリントすらされていないネガフィルムが山と残る。
 しかし女性は、例えば友人との旅行という行為の結果である「旅の思い出=記念の写真」こそが価値あるものなので、プリントされた写真群を旅行の「思い出を友人と共有するためのアイテム=アルバム」に保存しようとする。
 この「思い出の共有装置」であるアルバムもまた、「思い出の取得装置」であるカメラと共に変化を遂げたのが1980年代だ。
 それまでは分厚い台紙に金属製の綴じ具を用いた重いアルバムが主流だったが、樹脂製の粘着剤で自由に配置できる簡易アルバム(例えば、ナカバヤシのフエルアルバム)さらにはL判用の透明ポケットが着いたポケットアルバムへと、プリントされた写真を整理、保存するための手段がどんどん簡便化していった。

 この傾向を実証するのは簡単だ。
 1970年代以前に生まれた人と1980年代以降に生まれた人、それぞれに「子供の頃の写真を貼ったアルバム」について尋ねればいい。前者は重くて分厚いアルバム、後者はポケット式のアルバムを思い浮かべるだろう。
 さらに、女性の撮影した写真の増加を圧倒的に加速するカメラが生まれた。富士写真フイルムの「写ルンです」だ。
 レンズ付きフィルムが正式な呼称だが、使い捨てカメラの俗称が示すように、予め本体にフィルムがセットされており、撮影後もフィルムを巻き戻すことなく、いわば「撮りっぱなし」で現像取次店に出せば現像されたネガフィルムとプリントされた写真が手に入る。
 「多くのユーザーはカメラという撮影装置が欲しかったのではなく、カメラによって記録されたイベント(例えば旅行などの思い出)が欲しかったのだ」と、カメラメーカー地震が実証してしまったのである。

 これを受けて、取次店では顧客サービスのためにそれまで1冊に6ポケット着いていたポケットアルバムを、1ページに1ポケット(裏表で2枚のL判プリントが入る)簡素化されたものを無料で配るようになった。
 こうしてプリントされたL判の写真は各家庭に増え、それらを保存するアルバムも簡素化されたものが行き渡るようになった。
 こうした写真を撮影し、簡素化されたポケットアルバムに保存したのは「1980年代に生まれた子供の母親たち」である。
 そんな女性たちがコンパクトカメラやレンズ付きフィルムで撮影し、ポケットアルバムに保存した写真軍をごく普通の思い出の共有手段として観てきたのが、1980年代生まれである。
 飛躍的に増加した家族・友達写真。それらを保存したアルバム。
 この時期以降に写真に触れた人々の意識は。それ以前に触れた人々とは確実に異なっている。
 デジタルカメラの登場やカメラ付き携帯電話など、人々の写真に対する意識を変えた製品はいくつかあるが、近年で最も大きな変化を与えたものは「コンパクトカメラ→写ルンです」という撮影装置の変化と、それに伴う「アルバムの簡便化」である。
 そのどちらにも女性が大きく関わっている。
 そしてそんな時代の潮流に大きな影響を受けたのが、「当時の大人」であった女性の子どもたち世代であり、中でもそんな子どもたちの中の女性=女の子の子が15年ほど後にプリクラの洗礼を受けることになるのである。

(つづく)

# by horonekop | 2018-10-07 16:53 | 映像文化論